関係が希薄になる理由
「イエス様との深い交わりのある日々を送りたい。」と願うのであれば、祈りの場所と時間を日常生活の中で確保することが最優先されると思います。時間も場所も確保しないで「神様が本当にいるのかどうかわからない」や「信仰生活に力がない」や「魂が恵まれていない」と思うのは当然の結果だと思うからです。
それは遠距離でもない恋人で、いつでも会おうと思えば会えるはずなのに、愛する人のためにデートの時間や電話の時間を確保しないのと同じだと思います。もし、そんな彼氏彼女がいたら、きっと「私のことなんて感心がないんだ」と思って関係は希薄になっていくことでしょう。
2つの選択
僕はいつも2つのものの間におかれて選択を迫られています。それは祈りの時間や場所を確保したいという霊的な思いと自分のことをして楽しい時間を過ごしたいという肉の思いです。もし、僕が祈りの時間も場所も確保する気がないなら、それは僕が神様のことなんかどうでもいいと思っていることを証明しています。
それは霊的な戦いにおいて、肉を選択してしまっているにほかなりません。経験上、一度肉の思いを優先させてしまうと肉にもっていかれてしまってなかなか霊のことを考えるのが難しくなってしまいます。まさにこの御言のとおりです。
なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。 肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。
ローマ人への手紙 8:5
聖霊が正しい方向へ導いてくださる
じゃあ肉を優先させる意思決定をしたらそれで終わりなのでしょうか。そんなことは決してありません。魂が救われた時に与えられた聖霊は決してそうするように放っておくことはなされません。なぜなら、人間が神様と深い交わりをしたいと願っている以上に、神様はもっとそう強く願ってくださっているからです。
天の父は人間と神が和解するためにイエス様をこの地上に遣わされました。天の父は霊的な関係において人間と愛の関係を持ちたいと強く願っておられます。だからこそ、たとえ、人が肉の思いを優先させたとしても、聖霊が正しい方向へ導いてくださると信じています。
内なる声に耳を傾けるかどうか
問題は人間がその内なる声に耳を傾けるかどうかにかかっています。時には御言によって引き戻してくださるでしょう。または教会の牧師先生や信仰の先輩の言葉、あるいは説教から正しい位置へ戻そうとされるでしょう。
もし、人が心を頑なにして、その御声に耳を傾けないなら、肉の思いの行動は加速度的に増していくことでしょう。だからこそこのように祈りたいです。
「今僕が正しい位置にいないのであれば、どうか教えてください。心を開いてあなたの御声に従います。」