1686_福音に生きる者は福音を経験する

思いを馳せる中で

先日ブログで「なぜ、祈りたくないのか?」という自問に対する答えとして、「永遠のふるさとへの望みはある。永遠のいのちへの望みはある。しかし、今年の出来事を思うにこれからの地上における自分の人生には希望を見出せない。」と書きました。それでは自分の信仰に大きな暗い影を落としていると感じていたのです。

1684_自分の信仰に大きな暗い影を落としている今

しかし、いろいろと思いを馳せる中でそれは何も間違っていない。むしろ、正常だと思うようになったです。

途方もないほどの神の愛

まず、僕は牧師という立場の人たちがこどもを失うという経験をしたのを見てきました。普通であれば「主のためにすべてを捧げているのに、なぜ、こどもまでも失わなといけないんだ」という反応は自然なことだと思います。僕はそのような経験をされた牧師先生と直接そのことに対して何か聞いたことはないのですが、一つ心に残っている言葉があります。それはこのようなものです。

「福音に生きる者は福音を経験する」

それは、天の父がその一人子を惜しまずに与えたという、途方もないほどの神の愛、つまりそれこそが福音なのです。

殺される日に向かって生きた

次に、イエス様の生き方はどうたったのか?ということです。イエス様は天の父の御心を行うために生きられましたが、別の言い方をすれば殺される日に向かって生きていました。これは想像もできないほどの恐怖です。しかし、イエス様は天の父との交わりを何よりも大切にされました。そして、永遠を見て、救われる魂を見て、自身の命を捧げることを惜しまなかったのです。

そこで冒頭の言葉に戻ります。

「永遠のふるさとへの望みはある。永遠のいのちへの望みはある。しかし、今年の出来事を思うにこれからの地上における自分の人生には希望を見出せない。」

地上では旅人であり寄留者

僕はこれでいいんだと思いました。なぜ地上のことに希望を見出す必要があるのか?僕は大いなる勘違いをしていたようです。僕は自身が「福音に生きている」と宣言するにはおこがましいと思ってしまいます。しかし、確かに福音に生かされているのです。聖書の信仰者にはなれませんが足跡を歩めるように願いつつ。

これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。
ヘブル人への手紙 11:13-16

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