自分では悔い改めるべきことすらわからない
最近常々思うことはクリスチャンとして生きるために必要なことは「主から教えてもらわない限り何事も気づけない」ということです。それは将来歩むべき道であれ、日常的な些細な意思決定であれ、自身の変えられないといけない性質や罪もすべて含まれます。
救われる前の僕は自己肯定感が低く、比較的自分の罪に対して敏感なほうだと思っていました。しかし、それは罪が赦されたという確信がなかったからです。自分で気づけている悪い部分や罪は浅いところにすぎなかったのです。
きよめの精度や純度が上がる
しかし、救われて主と共に歩むようになると、さらにきよめの精度や純度が上がっていくことに気がつきました。今までだったら間違いなく野放しにしていた自分の言葉や思いに対して「これは主に喜ばれない言葉であり思いだ」と思うようになりました。
救われる以前は人に迷惑をかけたり傷つけたり、悲しませたりして生きていることに対する罪悪感だったのですが、救われたあとは自分の内側を注視するようになり、神さまを悲しませたくないという点に意識がいくようになりました。
泥だらけのTシャツに小さなごみが付着していても
それは、すでに泥だらけのTシャツに小さなごみが付着していても気づかないですが、真っ白なTシャツには小さなごみであっても付着していたらすぐに気づく状態と似ているかもしれません。
ある人からみたら、「そんなこと気にしなくていいじゃん!」と「か気にしすぎだよ!」とか「人生面白くなくなるよ!」と思われるかもしれませんが、主によって罪が赦された者にとっては些細な罪であれ見逃せなくなってくるのだと思います。
主と共に歩み続ける者だけが聖くなり続けられる
さらにその聖さは神様から一方的に与えられるものです。つまり、自身の努力や修行や訓練によって得られるものではありません。また人間を制御するために非常に有効な言語の力をもってしても神様が喜ばれるレベルにまで聖くはなれないものだと思っています。
それは、つまり「主と共に歩み続ける者だけが聖くなり続けられる」ということです。主と共に歩んでいるからこそ、主が教えてくださるのです。
逆に自分自身で生きようと思った瞬間に聖さにおいてはどんどん鈍感になっていってしまいます。主に喜ばれるため聖くなれるように、聖さにおいて敏感にならせて頂きたいと願っています。