一言一句同じお祈り
僕は祈りに関して、定型文的な毎回同じ祈りよりは、その時々に聖霊の導きを求める祈りをするように教育されてきました。それは、僕がペンテコステ派をバックグラウンドにもっているからかもしれません。たしかにそのほうがうそ、偽り、飾りのない真実な祈りができると思っていました。だから、自分が信仰をもってから「イエス様のお名前によってお祈りいたします。」以外のすべてにおいて全く同じお祈りをしたこはないと思います。
そういった背景があるので、僕は食前に子供と一緒にお祈りする時ですら比較的毎回違ったお祈りを捧げていました。しかし、嫁さんは違いました。嫁さんは毎回一言一句同じお祈りを子供としていたのです。今日はその結果どうなったかを書こうと思います。
2年以上毎日続けた
子供は2歳半でよくしゃべるようになってきたのですが、1か月ほど前から一人で食前の祈りをすることができるようにになったのです。それは嫁さんが毎回同じお祈りをしてくれていたからです。
「かみさま きょうも おいしいごはんを ありがとうございます これを たべて げんきにしてください イエスさまの おなまえによって おいのりします アーメン」
これを生まれてこのかた2年以上毎日続けてくれたおかげで、こどもは一人でお祈りができるようになったのです。僕は改めて嫁さんは母であるとともに教育者だと思いました。もし僕が教育していたら子供はずっとお祈りをすることができなかったでしょう。
みんなの前で暗唱
さらに最近こんなこともありました。子供は教会の小学生クラスに出席しているのですが、そこで1か月に1回暗唱聖句をすることになっています。子供はまだ2歳なので暗唱聖句はしていなかったのですが、先月から嫁さんのあとについて復唱するようになったのです。そして前回は御言を覚えてみんなの前で暗唱することができたのです。
「いつも よろこんでいなさい たえず いのりなさい すべてのことにおいて かんしゃしなさい」
僕は反省しました。なぜなら、完全に子供をなめていたからです。確かに子供の吸収力はすごいのはわかっていました。しかし、その吸収力を把握して、うまいこと教育するには優れた教育者がそばに必要だと知ったからです。
子供の立場に立って教育
僕は愚か者なので、子供のためにとりなしの祈りはできているほうだと思っていました。もちろん、それも大切です。しかし、同じように大切なのは行動して子供の立場に立って教育することでもあると学びました。