宗教生活
昨日は子どもは「幼子の信仰」から「青年の信仰」へと成長するということを書きました。そして、青年の信仰で必要とされるのは自由意志とも書きました。なぜなら、自分で選択するという体験をしないことには信仰は成長しないと思っているからです。
もし、自由意志を働かせないのであれば、それは信仰生活ではなく宗教生活になってしまいます。確かに行いにおいては信仰深いように見えます。しかし、それに自分の気持ちがついていっていないのです。そうなると、自分には信仰があるのかどうかすらわからなくなってしまいます。これは自己が分裂している状態です。
人を見てしまった
僕は個人的にイエス様に出会う体験をしてから、なぜか、この自己分裂の状態になったことがあります。それは人の期待に応えるために、信仰生活ではなく宗教生活をしたことが原因です。主ご自身を見ずに人を見てしまったのです。そうなると自分の行いに自分の気持ちがついていかなくなりました。この一貫性の欠如は律法主義に通じています。
自分では信じていると思っていても実は信じていなかったのです。
39年の人生の中で様々な試練の中を通ってきました。グラフで表すと右肩上がりの時もあれば、急落することもあったし、安定的にヨコヨコで推移することもありました。しかし、この時期ほどどん底で暗黒の時代はなかったと思います。一貫性のない宗教生活や律法主義は本当に人を殺してしまいます。
最も恐ろしいこと
そう考えると信仰生活において最も恐ろしいことは律法主義かもしれません。なぜなら、それはキリストの恵みから落ちてしまうことだからです。それはキリスト教の本質からずれることだからです。それなのに、自分には信仰があると思ってしまっているのです。それは不信仰よりたちが悪いことかもしれません。
律法主義は神を見ないで人を見ます。人を見る時に不平不満、愚痴、そねみ、ねたみ、つらみが出てきます。「なんで俺ばっかり」とか「なんで?」とか「あの人は」となるのです。少なくとも僕自身がそうでした。
キリストの十字架によって
僕は自身がいつでも律法主義になる危険性があると知っています。しかし、信仰によって律法主義にならず、キリストの十字架によって自由にされて恵みの中を歩ませて頂ける、それ以上に感謝なことはないと思いました。