神と共に生きること
もしかしたら、ある人は信仰生活を「困った時の神頼み」と思っているかもしれません。もちろんそれは間違いではありません。しかし、それは信仰生活の一面にすぎません。信仰生活とは、たとえ困っていなくても神と共に生きることを選択することです。なぜなら、神様ご自身がこんな僕たちと共に歩みたいと思ってくださっているからです。そのために、イエス様は十字架に架ってくださったのです。
僕がイエス様と共に歩む中で幸いだと思うことがあります。それは「イエス様に怒られる」という体験です。ある人は「え、イエスさまって怒ることあるの?」と思われるかもしれません。厳密にいれば怒られるのではなくて、戒められたり、教えられたりするということです。
怒られることが幸い?
なぜ、怒られることが幸いなのでしょうか。それは大人になるにつれて本気で怒ってくれる人が少なくなるからです。子どもの頃は怒ってくれる人が大勢いました。家にいれば両親、学校に行けば先生、教会に行けば先生、兄弟姉妹が怒ってくれました。つまり、間違った方向に行かないように教えて、戒めてくれていたということです。
しかし、大人になると怒られることが少なくなると思います。もちろん、家庭や仕事という側面に限定した場合、嫁さんに怒られたり上司に怒られたりすることはあるでしょう。しかし、人生全般の生き方として間違った生き方をしても周りは「その人の個性だから」とか「その人が自分で選んだから自由にしたらいいよ」と言って特に怒ってくれなくなるのです。
戒めて教え続けてくれる
その点、イエス様は違います。大人になっても戒めて教え続けてくれます。それは聖書を通してだったり、祈りを通してだったり、教会の奉仕や人間関係においてかもしれません。いずれにしても、あらゆるものを総動員して教え戒め正しくして、義に道から外れないようにしてくださるのです。これは本当に幸いなことです。
僕は駄目な人間なので実際によく怒られます。たとえば、誰かに対する愚痴を心の中に抱いてしまったり、行動を通して家族をサポートできなかったり、感謝の心を持たずに奉仕を仕様としてしまった時など戒められます。その度に「あーやってしまった」と思ってしまいます。
低く低く生きるよう
もしイエス様の戒めがなかったら僕は今以上に我が物顔に振る舞っていると思います。しかし、それを主が戒めてくださるから、低く低く生きるように教えて頂けます。これは本当に感謝なことです。