負荷テスト
自分への負荷が少なくなると物足りなく感じることがあります。日常における自分への負荷が大きくなれば大きくなるほど、自分の弱さや罪深さが浮き彫りになり、主に頼らざるを得なくなるからです。負荷が少ないと自分だけで生きていけると錯覚してしまうことがあります。そして、最近、生ぬるいな〜とか信仰の戦いをしていない気がすると思ったとたんに試練がきたりします。
聖書の言葉を実践できているかが問われるのは、順境の時ではなく、逆境の時だと思います。順境の時には聖書を読んで守れている気になっていたとしても、逆境の時に守れるかはわかりません。それは交通ルールで、「法定速度を守りましょう」を目にして自分は守れていると思っていても、いざ車に乗って、「急がないと遅刻する」という状況になった時にアクセルを踏まない選択ができるかと同じだと思います。
負荷テストに耐えた人たち
困難や試練や苦難を負荷という言葉に置き換えた場合、負荷がかかればかかるほど、自分の信仰が精錬されていきます。それはシステムが負荷テストを受けてもダウンしない堅牢なサービスであることが証明されることと似ています。
実際、聖書には、多くの負荷テストを受けた人物がいます。アブラハムはひとり子イサクを生贄として捧げるように命ぜられました。モーセは召命される前、40年間失意の中で羊飼いをする期間がありました。そして精神、身体、魂に対して最大級の過酷な負荷をかけられたのは、イエス様でした。へりくだりの道を進んでいき、その負荷に耐え、最後は蘇り、栄光をお受けになられたのです。
負荷テストによってあらわになる罪
自己の罪深さについていえば、泥が入ったかき混ぜたコップに例えることができるかもしれません。コップに泥水を入れるとしばらくは真っ黒の状態ですが、しばらくすると、下に泥が沈殿して、上部ほとんどはまっ透明になります。一見まっ透明でおいしそうな水に見えたとしても、コップのなかを棒で勢いよく回すとあっという間に真っ黒なコップに戻ってしまいます。
順境や平穏な時にはわからない自己の罪深さは往々にして、試練や逆境の時に現れます。困難、問題を自分への負荷と捉えるなら、こういった負荷は悪いものでもなんでもなく、神様が僕たちを罪に気付かさせてくれて、悔い改めに導くための愛なのだと思います!
そればかりでなく苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
(ローマの信徒への手紙 5章3節~4節)
■さなかにいる時は、その負荷が苦しく逃げたくなるかもしれない
■しかし、すべての負荷を耐えられたイエス様が共にいてくださり、僕たちもその力にあずからせてくださるだろう