ワーシップムーブメント
2000年に入ってからのペンテコステ派のワーシップムーブメントには目を見張る勢いがありました。世俗化が叫ばれる中、若者を中心にリバイバルが起こり教会に若者が集うようになったのです。まさに霊的覚醒、リバイバルそのものだったのです。2002年に聖霊のバプテスマを受けた僕もそのムーブメントの中の一人でした。
その代表格がHillsongであり、そのムーブメントはアジア、西欧諸国に広がっていきました。Hillsongの教会の設立は1983年です。わずか40年足らずで数万人が集うメガチャーチになったのは聖霊の働きというほかにないと思います。
僕の持論
そのムーブメントからも20数年が経過しました。コンテンポラリーミュージックを中心とした深い主の臨在の中で主に触れ、主に変えられ、主を知り、主の愛に満たされる聖霊の働きは衰えることなく今も健在です。
今から書くことは完全に僕の持論ですが、そのムーブメントに関してはこのように思っています。そのムーブメントが慣性の法則で続いているだけで実は今は別のフェーズに移行するべきなのではないか?という持論です。なぜなら、主は常に動かれているからです。
パブリックな礼拝中心の信仰生活
もっと具体的に書きたいと思います。パブリックな礼拝中心の信仰生活では、教会に来る時だけ主の臨在に触れられてクリスチャンらしくなりますが、残りの私生活については自分勝手に生きてしまう可能性があるということです。
こう書くのは僕自身がそうだったからです。日曜日や教会に来る時は聖霊に満たされて、平安、喜びに溢れます。しかし、僕の私生活については全く持って実を結んでいなかったと思うのです。それは僕が平日の生活に主をお迎えしていなかったからです。よりはっきり言えば、日曜日は主に仕え、平日はバアルに仕えるような生き方をしていたのです。
限界がある
ある人は、きっとこういうでしょう。「それは自分のケースだろ!」
しかし、僕は多くの燃えていた若者が教会から去っていくのを見てきました。またここ数年、世界中のメガチャーチでも多くの問題が顕在化しています。これら事実により僕はパブリックな礼拝中心の信仰生活には限界があると思うようになりました。
主との個人的な関係
結局、キリスト教信仰は、主との個人的な関係にいきつきます。主を軽んじるなら、信仰生活はいずれ破綻します。僕はこれからの時代、より一層、平日どのように主と共に生きるかが問われると思っています。これは自身への自戒を込めて書いています。













