自分はどのように生きたいか?
本日も信仰生活に関して節制することや努力することについて書きます。何度も書いているように節制や努力は救いには一切関係がありません。すべて恵みよるのであって、人間の努力や頑張りによるのではありません。
しかし、信仰生活にそれらが必要となるのは「自分がどのように生きたいか?」という自問で明らかになります。神様とこの世、どっちつかずでいいのであれば節制などは不要、現状維持でも不要、ただし、聖書が教えるさらなる高みを目指すのであればそれらは欠かせないと書きました。
救いには関係のないけど求められる
では、さらなる高みとはなんでしょうか。その一つは宣教の実です。宣教は聖霊によるものであり、力としるしが伴う場合があります。パウロはこのように言っています。
この記事とつながる読みもの
コリント人への第一の手紙 2:4
そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。
しかし、一方で宣教には聖書的な知識やこの世の知識を必要とする場合がほとんどです。牧会をする上では会計やチームビルディングなどこの世の知識も必要になります。もちろん、これらは救いには関係ありません。特定の人たちに要求されるものです。それは牧師や教師や伝道師と言った人たちに要求されるのです。救いには関係のないものだけけれど求められるのです。
そのように召されている
たとえば、僕が福音が未伝達の先住民だったとします。僕は文字を読むこともできません。しかし、主は僕を救うことができるでしょう。なぜなら救いの働きの原則は聖霊の働きだからです。伝えてくれる人さえいえば、僕は知識なしに努力なしに救いを得ることができます。
しかし、文字を読めない僕が牧師や教師や伝道師になれるかといえば、それは難しいと思います。僕が考えているのは、主からそのように召されているにも関わらずそれに取り組まないことはよくないということです。
召された時の状態
それは、この御言が表していると思います。
ルカによる福音書 12:48
しかし、知らずに打たれるようなことをした者は、打たれ方が少ないだろう。多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである。
僕は牧師や宣教師や伝道師になれるとは思っていません。しかし、僕の人生で主から受けた恵みを十分に生かしきれていないと思っています。だから僕は自分が召された時の状態にしたがっていきたいと思っています。
コリント人への第一の手紙 7:17
ただ、各自は、主から賜わった分に応じ、また神に召されたままの状態にしたがって、歩むべきである。これが、すべての教会に対してわたしの命じるところである。
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