奉仕には犠牲が必要
僕は奉仕をする中で神様が明確に働かれるのを体験した時にこのようなことを思ったことがあります。神様が働かれることは、自分が神様にどれだけ祈って備えたか、どれだけ神様と親密な関係の状態で奉仕を迎えたか、あるいは、どれだけとりなしの祈りの心をもって臨んだか、さらには断食によって整えたかなどによって左右されると思っていました。
確かにそれは間違いではないと思います。神様に仕える者として犠牲が必ず必要になるからです。自分の側の責任である実際的な準備もせず、祈ることもせず、できてしまうのであれば、それはおそらく霊的な奉仕ではないといえるかもしれません。霊的な奉仕はかならず、奉仕者が神様に近づくことが求められるからです。
必ずしもその犠牲の如何によらない
奉仕をする中で、これらによって備えることは欠かせないことを前提としつつも、神様が働かれるかどうかはこれらに依存していないということも事実だと思います。それはすべて神様の恵みによって行われることだからです。
もし、備えの如何だけによって神様の働きが決まるなら、「自分がどれだけやったか」によって神様の働きが制限されてしまうだけでなく、一歩間違えば奉仕者自身が恵みから落ちてしまう可能性すらあります。神様が働かれるのに別に僕やあなたである必要は決してありません。なぜなら、神様は石ころからでもアブラハムを起こすことができるお方だからです。
神様が主権を持っておられる
神様が働かれるのは、そこに神様が愛しておられる人がいるからであり、神様自身がその人たちに触れたい、語りたい、出会いたいと思っておられるからにほかなりません。そこに「奉仕をする人」は厳密にいえば不要なのだと思います。ただ、そこに神様がご臨在くだされば他の何物もいらないのです。
僕が今直面している問題は、自分が奉仕をする時に力が入りすぎているということです。よく準備してよく祈って備えるようにしている一方で、「自分」というものが色濃く残ってしまっているのです。そして、確かに奉仕は恵まれるのですが、なんとも言えない疲れがどっとくることがあります。
信仰生活に一貫性があるか
特に自分が主体的に取り組む奉仕、例えば、説教や司会やワーシップリードや証などの奉仕などをしたあとには自分の中に違和感を感じていました。それは、一貫性のない自分自身に対する違和感です。具体的に言うと、奉仕がある時は神様に近づくが、奉仕がない時はそれなりにしか神様に近づかないという信仰生活です。
まだうまく捉え切れておらず、言語化も難しいのですが、神様に仕えることは好きなのですが深い神様との愛の関係から仕えることができていないのではないかと感じています。今は習慣化された祈りの時間があるのですが、少しそこから外してしまって自由に主を求めるということを日常でやってみようと思います。