今朝、ねむけなまこで歩いていた時に、アイスバケツチャレンジなみに目を覚ませるような言葉が耳に入ってきました。歩きながら聴いていたラジオの内容をかいつまんで説明しますと、
小学生数名が放課後、サッカーができるグラウンドがなくなってしまい、改善を求めて区長に手紙を書いたが、要望に沿った回答は得られなかった。そこで、彼らは区議会宛に陳情書を書き送り、委員会の審査を経て通過、本会議で採決。無事、彼らの要望どおりグラウンドの利用時間の延長など複数の要望項目が実現した。
というものでした。驚くべきことに、彼らはグラウンドを手に入れるまでの308日間、ずっと諦めることなく、戦い続けたそうです。
最後に小学生一人が言った言葉に震えました。
行動しなければ、現状は変わらなかったと思うので、がんばってよかった。
眠いなと思いながら歩いているおっさんサラリーマンの後ろを思いっきり殴るかのような強烈な気付きを与えてくれました。もし、彼らがグラウンドがないことを諦めていた場合、サッカーをするグラウンドを手にすることはありませんでした。
これは、決して当たり前のことじゃないと思います。僕の中には「でも」とか、「だって」とか、「どうせ」とか、そういった言葉が往来することがしばしばあります。そして、行動するどころか、意欲さえ消失してしまっていることが多々あると気づいたからです。
旧約聖書に登場する信仰と父と言われているアブラハムは、神を信仰するゆえに、一人息子イサクを犠牲に捧げる行動を実際に起こしました。モーセの側近、次世代リーダーであるヨシュアは激しく流れるヨルダン川を渡る時に、まず、足を激流の中に入れました。軍の最高司令官であるナアマン将軍が重い皮膚病にかかった時、彼は、ヨルダン川に行って、7度洗うことを実行しました。
そして、彼らは、神の言が真実であることを体験したのです。
彼らとて、小学生と同様に「行動しなければ、現状は変わらなかったと思うので、(神様のいうことを聞いてよかった。)」と言ったと思います。
ビジネス的にいうと、行動しまくって、高速でPDCAを回して最適解を求める、ということになりそうですが、こちらも限界があり、先行き不透明な時代において、一寸先は闇です。
そこで、イエス・キリストはこのようにおっしゃいました。
求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。
マタイ7:7-8(口語訳)
小学生が区議会に陳情書で要望したように、良いものを与えてくださる天の父に求めます。そして、新たなる力を得て、鷲のように翼をはって登るが如く、力強く神とともに行動していきます。