霊においては良いもの
主の取り扱いを受ける中でつくづく思うことがあります。それは「変わりたい」と思っていても結局は主の導きがなければ結局は変えられることはないということです。主の導きと聞くと一見いいように思えます。確かに主の導きは良いものです。しかし、前提条件があり、霊においては良いものですが、肉においては必ずしも良いものではないということです。
主の導きは全知全能が個々に対して主が現在も将来もすべて見渡した上で導かれるのでそれにミスはありません。だからこそ主の導きはすべての人にとって良いものなのです。
肉におけるダビデの生涯
しかし、肉においてはどうでしょうか?肉においてダビデの生涯を見たらすぐにわかります。誰もこんな道を通りたくないと思うようなことばかりです。ダビデ自身の身から出た錆もあれば、全く彼は悪くないのに様々な苦難の道を通らされることがあります。
しかし、これこそが「主の導き」だったのです。この道なくして彼は主の前にへりくだることを学ばなかったでしょう。また賛美を捧げることはなかったでしょう。また詩篇をあれほど作ることはなかったでしょう。この道なくして彼はイスラエルの王になることもなかったのです。
神のなされることは
ダビデの生涯、あるいは聖書の人物の生涯は肉においては良いものではないと思えることがほとんどです。しかし、霊によって聖書を読むならば、彼ら彼女らの生涯がいかに幸いであったかということがわかります。だから、主の導きを求めるならばまずは霊によって求めないといけないということだと思います。
そうすれば、「神のなされることはすべてその時にかなって美しい」という原則にもとづいて、新しい人生が始まると思っています。
わが思いは
主の導きに身をゆだねることを決めたならあとは、この御言を心に留め続けることです。
わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、 わが道は、あなたがたの道とは異なっていると 主は言われる。 天が地よりも高いように、 わが道は、あなたがたの道よりも高く、 わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。
イザヤ書 55:8-9
神様の深い愛、配慮や計画は人間の小さな頭で理解しようとしないことです。もし、小さな頭で理解しようとするならば「なぜ?」という言葉しか出てこなくなるからです。しかし、主に明け渡す時に、「イエス様がいるから大丈夫、平安、安心、希望、喜び」となるのだと思います。