0535_誰のためにとりなしているのか?

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目標

このブログの目標は「聖書の言で人生を巡航速度まで上げ続ける。イエス・キリストと歩む逓増する豊かな心の人生。」としていますが、最近とても自己本位的な目標だと感じるようになりました。おそらくすべてのクリスチャンにとっての目標はおおよそ変わらないと思います。それは、宣教の実を結ぶことと御霊の実を結ぶことです。そういったところに紐づいてないと気づきました。

前者は明確で福音を伝えることを目標とします。後者は具体的には、ガラテヤ人への手紙に書いてありますが、一言でいえばイエス様のようになることです。いずれも人間の力では到底実現できるものではないので、真のへりくだりと悔い改めが日々求められるものだと思います。

大人のクリスチャンとは?

これまでもこのブログで大人のクリスチャンとは?について書いてきました。それを読み返してみると、やはり宣教の実とか御霊の実とか以前の問題で、非常に自分本位だと感じました。

0342_成熟したクリスチャンとは具体的に?
0442_大人のクリスチャンになりたい

もし、成熟したクリスチャンになりたいと思ったら、成熟したクリスチャンの作法を学ぶに限ります。一番は、この人と思える人のクリスチャン生活様式を弟子が師を真似るように真似てみるのです。しかし、神学生ならまだしもそういった環境に身を置くのはなかなか難しいことです。だからこそ、成熟したクリスチャンのロードマップがほしいと思うのです。。

とりなす者

明確なロードマップこそありませんが、聖書の人物を師とすることはできます。例えば、アブラハムです。信仰の父と呼ばれている彼は「とりなしの祈り」をする者でした。自分のために祈るのではなく、周りの人のために祈られたのです。しかも、それは何も友人知人や身近な人ではありません。彼は悪人の魂が救われるようにと祈りました。

アブラハムはソドムとゴモラが神様によって滅ぼされようとするときに、たとえ、彼らが罪深い人たちであっても、そこにもし10人でも正しい人がいるのであれば、滅ぼすことをやめてもらうように神様に取りなすのです。

誰のためにとりなしているか?

僕のとりなしの祈りはせいぜい、身近な人たちへの祈りです。それでとりなしの祈りができていると思っているところに高ぶりがあると思わされました。顔をあわしたこともないような人、さらには身勝手、放縦に身をゆだねてやりたい放題しているような罪人のために主の前に立って祈るほどの救霊の熱さがあるか?と問われました。

アブラハムはこのような者でした。

その人々はそこから身を巡らしてソドムの方に行ったが、アブラハムはなお、主の前に立っていた。
創世期18:22

自らは世俗に流されずに、主の前に立ち続けて、とりなす者

こういった人が成熟したクリスチャンに備わっている心だと思いました。とりなす者にしてください。祈りを教えてくださいと主に求めます。

おっさん
■成熟したクリスチャンに備わっていることに熱い救霊の思いからくるとりなしの祈りがある

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