0575_人は人を裁けない。法律によってのみ、あるいは神ご自身のみ裁く権利がある

気づかないうちに

最近特に自分の内面に注視しています。なぜなら僕は油断するとすぐに因果で物事を解釈してしまうからです。例えば、ニュースやSNSなどを見ても「あーだからあーなった」とか「あんなことするから自業自得だ」というように、自分が無意識のうちに人を断罪してしまっていることがあるのです。

何気なくスマホで見ているニュースやSNSなどには「人が人を裁いている情報」で満ち溢れています。安倍首相のこと、旧統一教会のこと、小室さんのことなどなど、客観的事実を伝達しているというよりはその人の人格を否定するような悪意のある表現がとても多いです。こういった情報は何気なく見て、影響を受けていないと思っていても、気づかないうちに感情を持って行かれるものです。

さばくことができるのは

もちろん、もしかしたら、それは事実かもしれません。「ある人が犯罪を犯したのはその人が悪いから」と簡単に片づけることもできます。しかし、その人の生きてきた環境や背景などを鑑みると、ただたんにその人が悪かったというだけで片付けられないと思っています。

もっとも、人の罪を裁くことができるのは、罪のない人だけです。つまり、イエス・キリスト以外に誰も人の罪を裁く権利はないのです。

律法は聖なるもの

罪を犯した人は、人によって裁かれるのではなくて、法によって裁かれるのです。聖書に書いてあるとおり、律法は聖なるものだからです。だから人は法によって人を裁くことだけをゆるされているのです。人が直接人をさばくことについて聖書は明確にこのように言っています。

人をさばくな。自分がさばかれないためである。 7:2あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
マタイ7:1

人を裁かないと

「真理はあなたがたに自由を得させる」と聖書にあります。もし、人を裁かないような人になれたら、より自由に近づくでしょう。なぜなら、そうすることによって、自分も裁かれないようになるからです。自分が人を裁く時に自分も裁かれているのです。自分も断罪されているので、そこに自由はないのです。

僕は10代の頃から何度も何度もこの聖書の御言に頭をどつかれています。とってもパンチの重い御言です。あるいは、切れ味のいい包丁のように自分の汚い気持ちを切り離して明確にしてくれるような御言です。

おっさん
■人を裁かない。それは自分が自由になるため。

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