神様の約束
最近は通読でヨシュア記を読んでいます。ヨシュア記には出エジプト以降、荒野での40年を経て次の世代の物語が書かれています。偉大な指導者モーセの次のリーダーになったヨシュアは途方もないくらいのプレッシャーがあったことでしょう。しかし、神様の約束はこれでした。
わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない」。
ヨシュア記 1:9
もしヨシュアが人を見る人であればモーセが死んだ時に失望していたでしょう。また何百人といる自分より年上のイスラエルの民を見て萎縮したでしょう。またこの先戦わないといけない異国の民を見て恐れてしまったでしょう。しかし、ヨシュアは主を見た人でした。
神様の言葉の力
実際、主はヨシュアと共にいてくださって輝かしい勝利をイスラエルの民に与えられます。エリコの城壁が超自然的な神様の介入で崩れ落ち、イスラエルの民は要塞をも突破することができたのです。これは神様の言葉の力そのものです。
わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。
コリント人への第二の手紙 10:4
しかし、この輝かしい勝利は次に続きませんでした。楽勝だと思われていたアイの戦いではあっけなく負けてしまったのです。その根本的な原因はある人物にあります。しかし、この一連の流れには、ダビデが戦の前によくしてた「私はこの敵にあたることができますか?」という祈りをしていた記述がないのです。もしかしたら、ヨシュアも慢心していたのかもしれません。
主に対して罪を犯しました
主はアイの戦いには共にいかれませんでした。それは、アカンがエリコの城壁での戦いで得た金銀などを主に捧げずに自分のものとして天幕に隠していたからです。犯人がアカンだと判明してから、このような場面があります。
アカンはヨシュアに答えた、「ほんとうにわたしはイスラエルの神、主に対して罪を犯しました。わたしがしたのはこうです。わたしはぶんどり物のうちに、シナルの美しい外套一枚と銀二百シケルと、目方五十シケルの金の延べ棒一本のあるのを見て、ほしくなり、それを取りました。わたしの天幕の中に、地に隠してあります。銀はその下にあります」。
ヨシュア記7:20-21
みなさんはこれを読んでどう思われるでしょうか?僕はアカンは正直な人だと思ったのです。彼はこの期に及んで言い開きをしませんでした。正直に「ほんとうにわたしはイスラエルの神、主に対して罪を犯しました。」と告白したのです。これは彼が正直に悔いたのです。しかし、どうなったでしょう?彼だけでなく、彼の家族もろとも石で撃ち殺されてしまったのです。
悔いて改めるチャンスは原則なかった
これが本当の神様の基準です。神様の前には悔いるチャンスがあるかもしれませんが、悔いて改めるチャンスは原則ないのです。しかし、新約聖書においてキリストの尊い血潮が流されたゆえにただ恵みによって人は悔いて改めるチャンスをキリストにあって得ることができるようになったのです。
これは恵みというほかにありません。僕はよく思います。それは、旧約聖書を知らずして本当の新約聖書の恵みを知ることはできないということです。僕はアカンと同じです。しかし、僕は石で撃ち殺されることはありません。それは、イエス様が僕の代わりに石で打たれた(十字架で罰を受けられた)からです。