先日(コロナ自粛以前)、人生初のボルダリングをしました。最初は1時間だけで足りるかなぁと心配していましたが、いざ取り組むと、ものの30分ほどで、指の握力全部吸い取られて、缶ジュースすら握れなくなるほどの疲労感が襲ってきました。(笑)
でっぱりを探して、あっちに足のせ、こっちに足のせ、体重をうまく移動させながら上へ登っていきます。子供の頃にしていた木登りの感覚に似ていました。子供に戻ったような気持ちになり、非常に楽しい時間を過ごすことができました。
昔は、背のお兄ちゃんたちだけが登れる木は羨ましくて、下から指をくわえて、眺めていたものでした。登りきった達成感と共に眺める景色はきっと美しいんだなと。だから、大きくなったら、登ってやるぞ!と。
聖書には木登りをした人物がいます。高みに登って美しい景色を見るためではありません。達成感を得るわけでもありません。どうも登らざるを得なかった事情があるようです。彼には、どうしても見たいものがありました。あたりは優勝パレードのような雰囲気で、群衆はこぞっとつめよります。
彼は当時の政府機関の税務署で働いており、地位も非常に高かったはずですが、背が低かったようです。地位が高いにも関わらず、
背が低かったので、群衆にさえぎられて見ることができなかった。
ルカ19:3(口語訳)
とあり、群衆は彼を前に通そうとはしませんでした。聖書の記述によると、彼は「不正な取り立てをしていた」とあり、群衆から嫌われていたと推察されます。
そこで、彼がとった行動は、木に登ることでした。目的はただ一つ、現在でいうとフォロワー何億人級のインフルエンサーであるイエス・キリストを見るためだけです。ここで、イエス様が彼の木の下を通りかかった時、驚くべきことが起こります。
そこでザアカイは急いでおりてきて、よろこんでイエスを迎え入れた。
ルカ19:6(口語訳)
ザアカイは、イエス様に会ったことはありませんでしたが、イエス様は会う前からザアカイの名前を知っていました。ザアカイの劣等感と孤独と苦悩も知っていました。イエス様は彼を憐れみ、そして、群衆は大勢いたにも関わらず、御自身を必死に尋ね求めるザアカイのところへ行きました。
ザアカイはこの時、子牛が喜び跳ねるような気持ちだったと思います。救いの喜びです。彼はキリストの救いを受け入れ、これまでしていた不正な取り立てをやめる決心をして、キリストのような生き方をするように方向転換をします。
今日も、明日も木に登って(聖書を読んだり、祈ったりして)、イエス・キリストを求め続けます。
あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主は言われる。
エレミヤ29:13-14(口語訳)