神様のために生きている!?
これまで僕は神様のために生きていると思ってきたこともありましたが、実は表面は神様を喜ばせるために生きていると思っていたとしても決して内実が伴っていないものであったと思います。その理由は明確で自分に死にきれていないからです。神様にとって用いやすい、用いたいと思える器は自分に死んだ器の他なりません。
ヤコブはふるさとから追い出されて、石を枕にして荒野で寝なければいけない状況におかれた時にはじめて生きた主に出会う体験をしました。しかし、その時の彼はまだ自分に死んではいませんでした。その時の彼の祈りはこのようなものでした。
ヤコブは誓いを立てて言った、「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神といたしましょう。またわたしが柱に立てたこの石を神の家といたしましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます」。
創世記28:20-22
ヤコブは本音ベースで神様と向き合っていた
この時ヤコブは生きた主に出会う大きな体験をしたにもかかわらず、条件付きの誓をしています。それは簡単に言うと「神様が私を祝福してくださるなら、あなたを神とします。」というようなものでした。
僕はこの記述を読んだ時に、ヤコブははっきりとそういったことを言う点で非常に優れていると感じました。なぜなら、僕のように神様のために生きていると言いながら、実は生きていない者もいるからです。
聖書でイエス様はこのようなことも語っておられます。
あなたがたはどう思うか。ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、『子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ』。すると彼は『おとうさん、参ります』と答えたが、行かなかった。また弟のところにきて同じように言った。彼は『いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた。このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」。彼らは言った、「あとの者です」。イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。
マタイ21:28-31
神は心に真実を求められる
つまり、神様は上っ面や表面ではなく、心に真実を求められるということです。上っ面は従っているように見える人よりも、心に真実で本当に従う人を求められていることをここ数日思わされました。冒頭に話をしたヤコブは自分の力ではどうしようもできない究極の状態に置かれた時、彼はすでに自分に死んでいました。
ヤコブはまた言った、「父アブラハムの神、父イサクの神よ、かつてわたしに『おまえの国へ帰り、おまえの親族に行け。わたしはおまえを恵もう』と言われた主よ、あなたがしもべに施されたすべての恵みとまことをわたしは受けるに足りない者です。
創世記32:9-10
本音の関係
神様との上っ面だけの関係よりも、えぇ!そんなこと言う?というようなことがあっても、ヤコブのように本音ベースで神様との関係を求めたいと思いました。神様はすべてをご存じですが、心に真実な者を求めておられるからです。