寝るだけの選択
昨日は、たとえ自分の心が主から離れてしまっていても本人はそれに気づかない場合があると書きました。そして主はそれに気づかせてくださるために時には体調不良などをもって導いて下さるということも書きました。僕はそれによって何とか心の平安を取り戻したのですが、実は僕はその語りかけすら無視する可能性があったことも書こうと思います。
体調不良で休息をとる選択肢はあったのですが、それであれば寝るだけの選択もあったはずです。しかし、今回は寝るだけではなくて主の前に出る選択もしました。その理由としては、その週に教会の奉仕が与えられていたからです。
主をだますことはできない
当然、自分の心が主から離れている状態では主に仕えることはできません。もちろん、周りの人にできているように見せかけることはできるかもしれません。しかし、主をだますことはできません。僕の経験上、そういった態度で奉仕をしてしまった時は、心に平安がないどころか不平不満の思いが出てしまったりすることがありました。
ですので、休息の選択肢が与えられた時に、「これは主に近づかないといけない」と大変なことになると思ったのです。
人は安きに流れるもの
しかし、もし、その週に教会の奉仕がなければ僕はどのような選択をしていたのでしょうか。人は安きに流れるものなので、おそらく、寝るだけの休息をして主に近づく選択をしなかったのではないかと思いました。こう考えた時に仕えさせて頂くことができる教会を与えられていることに深く感謝しました。
これは僕の場合ですが、もし教会に所属していなかったら、自分の信仰にまじめに向き合うことなく流されるがままに安きに生きていたと思うからです。
必要なものを備えてくださっている
神様が信仰生活で必要なものを備えてくださっているということは聖書にも書かれています。
イエス・キリストによって、みこころにかなうことをわたしたちにして下さり、あなたがたが御旨を行うために、すべての良きものを備えて下さるようにこい願う。栄光が、世々限りなく神にあるように、アァメン。
へブル13:21
神様は御旨を行うために、すべての良きものを備えてくださっています。その良きものには、教会や教会にいる先生や兄弟姉妹も含まれているのだと思わされました。時に僕は「自分の信仰」と思ってしまうことがありますが、信仰が守られているのは主がすべての良きものを備えてくださっているからにすぎません。ただただ主に感謝いたします。