祈りの神殿
最近、自分の中で崩れきっていた祈りの神殿が再び建て上げられつつあります。僕は愚か者なのでこれまで神殿を建て上げては崩れてを何度も繰り返してきました。直近では2022年にも同じようなことを書いていました。
0502_シロアリが巣食う家屋のごとくにボロボロになった祈りの神殿
祈りの神殿が崩れたきっかけは自分からイエス様と距離を置きたいと思うようになったからです。今年自分に起きた出来事は少なからず自身の信仰に大きな影響を与えました。
距離をとったまま
別に聖書を読まなくなるとか教会に行かなくなるとか奉仕しなくなるとかいうのではありません。信仰生活は自分にとって何よりも大切だし、それによって自分が生かされているということもわかっています。ただうまく言葉で表現できないのですが、祈りにおいては自ら距離を取りたいと思っていたのです。
そんな期間が5か月ほど続きました。もちろん、そんな距離をとったままでは教会の奉仕もままなりません。だから、そういった時だけ主の前に出て、自分がへりくだって奉仕して、主の御心のとおりに働けるように祈っていました。
あなたなしでは虚しい
それ以外の何でもない時はほとんど積極的に主に祈っていなかったのです。しかし、先日も書いたとおり、僕の心は渇いていく一方でした。何をしても虚しいと思うのです。新しい本や気になっていた本などを読んでも何も心は満たされませんでした。むしろピークは本を買った時にあったと思うくらいです。
新しい習慣を身につけたり、運動したり、自身の身体に刺激を与えても、僕の心はずっと虚しいままでした。そんな状態が数か月も続き、僕はついに音を上げてしまいました。それは先日も書いた通り「主よ、僕はあなたなしでは虚しい存在です」という告白です。
自分が本当にほしいもの
それができたのが本当に数日前です。僕は心が飢え乾いて仕方ありませんでした。お風呂場で電気を消して真っ暗な中で主を求めました。その時に僕は自分が何を求めていたのかを知りました。つまり、僕は「自分が求めていること」すらわかっていなかったのです。
僕は単純に「自分がほしいと思うものが自分がほしいもの」と思っていました。小泉構文みたいですいません。しかし、上手く表現できないのです。「自分がほしいと思っているものが必ずしも自分が本当にほしいものとは限らない」ということを知ったのです。
ほしいと思っていなかったもの
その逆で僕がほしいと思っていなかったものこそが実は自分が本当にほしいと思っていたものだったのです。冗長でまどろっこしい表現しかできませんが、今はそのように思っています。













