嘆願、依頼、お願いばかりの祈り
祈りの神殿が回復されつつある中で、自分の祈りが変わったように思います。以前はそればかりではよくないと思いつつも、嘆願、依頼、お願いばかりの祈りになっていました。祈りの範囲も自分、限られた範囲内の人に対するとりなしだけです。
しかし、祈りの神殿が回復すると祈りが変わりました。まずイエス様が自分を救ってくださったことに対する感謝の祈りになったのです。お願いごとよりもまずイエス様の十字架への感謝の心が湧き出てきたのです。
感謝は賛美に
そして、その感謝は賛美になります。主は素晴らしいお方、麗しいお方、偉大なお方、善にして善をなされるお方、賛美を受けるにふさわしいお方と祈りが賛美になります。そして、主があまりにも素晴らしいお方なので僕は真っ暗なお風呂場で全裸で文字通り跪いて、地面に頭をつけて主の前にひれ伏したのです。
僕は暗唱聖句などで「御前にひれ伏す」や英語の宣言で”I bow before your greatness”などを告白していました。また何よりワーシップソングや賛美歌でもそのような歌詞で賛美していました。しかし、驚くべきことに実際にひれ伏すことはしていなかったのです。
身体性を伴う祈り
僕は主の前に実際にひれ伏した時にこれこそが賛美だとさえ思いました。もしかしたら、ある人は「心がへりくだっていることこそが重要なのだ」と思われるかもしれません。しかし、行動は自分に大きな影響を与えます。言葉だけではなくそこに行動も伴う時に、つまり、身体性を伴う時に、それが自身に大きな影響を与えるのです。
僕は頭では主が偉大なお方と知っていました。しかし、自分の身体で主の前にひれ伏した時に主の偉大さを体験すると同時に自分の小ささを体感したのです。
主の前に跪く
日本の多くのキリスト教会の礼拝では礼拝中に「跪く」ということはほとんどないでしょう。僕が過去に参加したペンテコステ派の集会で外国人説教者がミニストリーの最中に跪いているのを見た事が何度かあります。しかし、本当にそれくらいです。
しかし、イスラム教などは「跪くこと」が必須です。何度も書きますが、「主の前に跪く」ことは自身の信仰や霊的状態に大きな影響を与えることは間違いないと思います。
心から信仰をもって
僕は信仰や霊的なことに対して「こうしたらこうなる」という決まり事、ノウハウ的な要素を持ち込んで決めつけるのは好きじゃありません。それに注力しすぎると遅かれ早かれ宗教儀式になってしまうからです。しかし、心から信仰をもって主の前に跪くことは、自身の信仰に良い影響を与えると思ったのです。













