聖なる者として歩ませてくださる恵み
イエス様の十字架は人間の罪を赦してくださいます。またそれだけではなくこの地上において聖なる者として歩ませてくださる恵みに与らせてくださいます。しかし、この聖なる者という言葉に対しては信仰が必要になります。なぜなら、自分を見るならば「どこが聖なる者か?」と思ってしまうからです。それは義人はいないと書かれているとおりで事実です。しかし、真理は違います。
真理とはなんでしょうか?それは信仰の導き手でありその完成者であるイエス様ご自身です。そう考えるとクリスチャンに求められることはとてもシンプルです。徹底したへりくだりと、そこから起こるイエス様への渇望こそが信仰に繋がると思っています。
1度変えられ、変えられ続ける
またこの聖めに関しては到底人間が到達することのできないものではありません。また観念的で見えないものではありません。もし、到達できもしない、また観念的に聖められたと思い込むだけの教えに何の意味があるのでしょうか?また何の力があるのでしょうか?何の影響力があるのでしょうか?
イエス様に出会った人はすべからず必ず価値観が180度変えられます。そして、微差の積み重ね、かつ遅々としてかもしれませんが、確かにこの地上で主の栄光の姿に変えられていく望みを確かに抱いています。
しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいない
なぜそんなことができるのでしょうか?人間には変えられないことであっても神にはできるからです。聖書にはキリストをかしらとした教会をしみもしわもない状態として迎えてくださるとあります。もし、肉の目で見るならば、教会とは人の集まりであり、他の団体などとは何の違いもないと見えるかもしれません。
しかし、確かに主はしみもきずもない状態として義と認めてくださるのです。
エペソ人への手紙 5:27
また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。
人間では決して除去することのできないしみやしわ
旧約聖書において捧げものにはしみもしわもきずもない子羊が用意されました。先天的なしみやしわがあるもの、また後天的に傷がついたものは捧げものとしては使われることはなかったのです。僕はどうでしょうか?僕には先天的なしみやしわが大量にありました。また後天的についた傷も大量にありました。社会不適合的側面が強かったため普通の人よりも多かったと思い明日。また今も残っているものがあります。
しかし、主に出会った時に、人間では決して除去することのできないしみやしわが確かに除去されて変えられる体験をしました。これこそが十字架の力であり、イエス様が成し遂げてくださった十字架の力だと思っています。僕にはまだまだ変えられないといけないしみ、しわ、きずがあります。だからこそ、イエス様が必要であり続けます。