洗礼を受けた
先日、嫁さんとこんな話をしていました。それはこのような話です。ある洗礼を受けたクリスチャンの友人が「洗礼を受けたから救われた。だから教会にも別に行かなくてもいい」というそうなのです。嫁さんは聖書の下記箇所を引用して、それは聖書が言っていることではないと言っていました。
マタイによる福音書 7:21
わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
僕もそう思います。そして僕は嫁さんにこのように言いました。
「僕は確かに救われた。でも、イエス様と共に生きる人生はこんなもんじゃないと思っている。なぜなら、僕の生き方は聖書の生き方からほど遠いから。だから、もっとイエス様に近づいて変えられたい。そのためにはキリストの体である教会も信仰生活も僕には必要なのだ。」
僕は罪に負けてしまう自分からキリストの十字架によって解放されたいと今なお切実に願い続けています。
まぁ人間だもの。こんなもんだよね。
聖書にはこのような記述があります。
申命記 29:19
そのような人はこの誓いの言葉を聞いても、心に自分を祝福して『心をかたくなにして歩んでもわたしには平安がある』と言うであろう。そうすれば潤った者も、かわいた者もひとしく滅びるであろう。
エレミヤ書 8:11
彼らは手軽に、わたしの民の傷をいやし、平安がないのに、『平安、平安』と言っている。
これらは僕にとって耳の痛い御言です。なぜなら、僕自身も同じように思っていると感じているからです。聖書の基準やイエス様の生き方から見れば、クリスチャンの生き方はこんなもんじゃないのに、「まぁ人間だもの。こんなもんだよね。」と妙に納得しようとするのです。
主の前に降参
それは平安に関しても同じです。自分には「平安がある」と思っていても、それは自分が知る限りの平安であって、もしかしたら神様から与えられている平安ではないかもしれないのです。だから、僕は主の前に降参します。そして、このように祈ります。
- 今日もあなたのうちに留まって生きることができるように助けてください
- 今日もあなたと共に生きる者としてください。
- 主よ、わたしが弱さに囚われないように造り変えてください
- もっとあなたを感じることができるように導いてください
- あなたのもっと深い愛を体験できるものへと私の堅い心を柔らかくしてください
- イエス様が十字架にかかってくださって、私の罪を洗いきよめてくださって、わたしが罪に勝利できるように助けてください













