悲しみのあまり死ぬほど
先日、聖書を読んでいて心に迫る御言がありました。それはこの御言です。
マタイによる福音書 26:38
そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。
これはイエス様が十字架にかけられる日の夜明け前、ゲッセマネの園で祈っておられた時の言葉です。この御言に書かれているとおり、イエス様を襲った悲しみは普通の悲しみではありませんでした。それは、死に至らせるほどの悲しみであったのです。
どうしてわたしをお見捨てになったのですか
このゲッセマネの祈りでイエス様は想像を絶するほどの苦痛の叫びを天の父に捧げています。それは、ストレートに書けば「十字架にかかりたくない」というものでした。しかし、自分の思いではなく天の父の御心ままにと祈られたのです。
そしてイエス様はついに望み耐え、天の父にさえも見捨てられました。
マタイによる福音書 27:46
そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
アドナイ・エレ、主の山に備えあり
以前もこのブログに書きましたが、アブラハムがイサクに捧げた時はイサクは死なずに済んだのです。神の原則はアドナイ・エレで主の山に備えありだったのです。しかし、カルバリの丘には無慈悲にも備えはありませんでした。イエス様はそのまま神の子羊として捧げられたのです。
だからこそ主は「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのだと思います。
あなたに何がわかるんだ
僕は人からも天の父からも見捨てられたイエス様を褒め称えます。それは僕の罪のためだったからです。それはイエス様がすべての苦しみを味わってくださったからです。誰もイエス様に対して「あなたに何がわかるんだ」とは言えません。主は確かにわかってくださるのです。
僕は人からも天の父からも見捨てられたイエス様を褒め称えます。それはイエス様が復活され、今は共にいてくださるからです。
神の原則
つまり、神の原則に変わりはなかったのです。アドナイ・エレ、主の山に備えありの原則のとおり天の父はイエス様を見捨てることはしませんでした。イエス様は天の父地によみがえらされて今も生きておられるのです。
使徒行伝 2:24
神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。イエスが死に支配されているはずはなかったからである。













