1042_多くの場合、人は自分の罪を低く見積もる

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人は自分の罪を低く見積もる

これはあくまでも僕の仮説ですが、「人は自分には罪がないと思う。もしくは悔い改めるほどの罪はもっていない」と思う傾向が著しく強いのではないかと思っています。これはあくまでも自分を見て思った傾向であって、それを全人類に適用するのはいかがなものか?と思うかもしれませんが、聖書を見ていてもそれは真実のように思います。

まず、新約聖書には2種類の人達が出てきます。一つは自分の罪を自覚している人、もう一つは自分には罪がないと思っているひとです。そして、イエス様は確かに自分の罪を自覚している人たちに寄り添って、罪を赦すという大きな奇跡をされました。聖書にもこのようにあります。

パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
ルカ18:11-14

自覚していない罪があった

ここに出てくるパリサイ人は確かに貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなかったのでしょう。しかし、彼には自分が自覚していない罪がありました。それは自分には罪がないと思っている罪であり、人を見下げる罪であったり、高慢である罪であると思います。

これは僕も同じだと思いました。なぜなら、僕は自覚していない罪をないものとして見ているからです。本当は自分が自覚していない多くの罪があるにもかかわらず、それをわかっていないのです。これは神様の前に出るうえで相当致命的であります。

自覚するために

なぜなら、罪は自覚させられないと悔い改めることができないからです。そして、嘘偽りのない真の悔い改めによってでしか人は変わることはできないからです。なぜなら、へりくだった悔いた心に神は働いてくださって人を造り変えてくださるからです。

僕の今年の課題は、まさにここにあります。自分が自覚できていない罪を自覚することです。そのために必要なことは御言によって神様のことをもっと知ること、そして、祈りの中で聖なる主に触れて罪人である自分の真の姿を知ることです。

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