家に招かれて思ったこと
先日教会の夫婦の方に食事に招かれました。コロナになってから他人の家に行くことがめっきり減っていましたが、全員がワクチン2回接種が完了しており、感染防止に徹底することでお伺いしました。美味しいお食事を頂き、教会のことや夫婦のことなど話に花が咲き、楽しい時間を過ごすことができました。
久しぶりに家に招かれる体験をして、そういえば、実家にいた時、僕が幼い頃から大人になるまで、実家にはたくさんの人が来ていたことを思い出しました。大勢のときもあれば一人の時もあり、母が料理を振る舞い、父が面白い話をして来客者を笑わせる時間は僕にとってとても楽しい時間でした。
家に招くということ
家に招くには、ある程度、心をゆるしていないとできないと思います。家は安全の基礎となる場所であり、そこに人を入れる事自体、気をゆるしていないとできません。人によっては違うかもしれませんが、営業マンなど少し長めの商談をする場合でも玄関先で対応すると思います。
家の中に入ると、家の中の様子がわかりますし、どんな生活をしているのかがよくわかります。置いてあるものから、どんなものに趣味があるのかがわかりますし、飾られている表彰や写真を見ると、過去もうかがい知ることができます。
そういうわけで、かなりの程度、自分がどういった人間かがわかってしまうのとセキュリティーの側面から、ほとんどの人は、親しい人しか家に招かないでしょう。
招かれ、招く
イエス・キリストは、私達を招いてくださっています。
イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。
ヨハネ6:35
とイエス様はおっしゃいました。聖書には「誰でも渇くものは〜」から始まる言葉が旧約・新約に多くあります。イエス様はすべての人を招いてくださっています。だから、自分がどんな姿であれ、イエス様の懐に飛び込んでいきます。
また、私達はイエス様を招きます。
見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。ヨハネの黙示録3:20
私達の心の部屋の中はどんな状態でしょうか。誰にも見せたくない側面があるでしょうか。僕にはあります。たとえ、どれだけ汚くても、どれだけ卑しくても、イエス様が3Kの場所(汚い、臭い、暗い)、馬小屋で生まれてくださったようにイエス様は私達のこの汚い心であっても来てくださいます。
私たちがまだ罪人で会ったときにイエス様は私達のために十字架にかかって死んでくださいました。ですから、今日もイエス様を心の中にお迎えし、十字架によって罪赦されていることに感謝して過ごしたいと思います。