1661_主の方法は砕かれる

自分なりにきつい人生

僕のこれまでの人生は自分なりにきつい人生だったと思っています。まず17歳で救われるまでは「自分は何のために生きているのか?」についてずっと自問していました。幼い頃より、この世界に対して異常な違和感をもっていたので、だいぶ変わった子供だったともいます。

小学校の運動会一つにしても「なぜ走らないといけないんだろう。」といちいち意味が見いだせずに、やる気も何もない子供でした。周りからみたら何ともないように見えていたかもしれませんが、内心は生ける屍のような気持ちで生きていました。

僕には荒野が必要だった

しかし、17歳の時に人生が完全に変わります。それは生けるイエス様に出会って救われたからです。僕は水を得た魚のようになりました。それは、生きる目的が与えられただけではなく、自分は「イエス様に愛されている存在」だということがわかったからです。僕の生きる原動力は今でもイエス様の愛です。それは十字架です。

救われてから人生がバラ色だったかというと決してそうではありません。なぜなら、古い、悪い性質、砕かれないといけない自我、変えられないといけない資質などが相当残っていたからです。確かに魂は救われましたが、僕には荒野が必要だったのです。

どんな時でも主は見捨てず見放さず、共にいてくださった

何も苦労話をしたいわけではありません。ただ人生に何度も荒野の時があったのです。1回目の荒野は18歳での浪人、2回目は21歳での中国留学、3回目は26歳で行った3年間の中国滞在、4回目は34歳の結婚を境に母教会を離れた時、5回目は自身の子どもの死でした。

荒野を通る時は痛いです。苦しいです。四面楚歌、主は共におられるのか?と思わざるを得ないことが何度もありました。しかし、主はいつも真実なお方でした。御言どおりのお方だったのです。それは、荒野に水を湧き出させることが出来るお方だったのです。確かにどんな時でも主は見捨てず見放さず、共にいてくださるということを教えてくださるレッスンだったのです。

霊においては祝福であり恵み

僕にはまだまだ砕かれないといけないものがあります。変えられないといけないものがあります。栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられる望みは素晴らしいです。もし、何の痛みも苦しみもなく変えられたらどれほどいいかと思う時もあります。しかし、主の方法は砕かれるのです。

砕かれるのは肉においては怖いですが、これまで通ってきた荒野の主の真実さを思えば、霊においては祝福であり恵みです。

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