神は霊
昨日は日本のキリスト教会はスピリチュアルに振れ切ったほうがいいと書きました。キリスト教会におけるスピリチュアルという言葉の印象はネガティブな場合が多いと思うのですが、ここで書くスピリチュアルとは「祈りによって聖霊を高める生き方」を指します。
神は霊であるから、聖書も霊的なものです。理性で理解することも大切ですが、心で受け止めて霊的な生き方をすることも大切です。後者が疎かにされていると思うのです。少なくとも僕自身は疎かにしていました。
メディテーション(瞑想)の文化
なぜ、僕がスピリチュアルに関して強く主張しているかというと、実はこの世界の優秀なビジネスマンのほうが祈っているかもしれないと思ったからです。たとえば、アメリカではメディテーション(瞑想)の文化が根付いており、優秀なビジネスマンは1日の生活の中に瞑想を取り込んでいます。僕が尊敬するレイ・ダリオ氏も瞑想することを強く勧めています。
もちろん、「祈りと瞑想は違う!」は正しい主張です。僕が言いたいことは、世のビジネスマンでさえ、世俗を離れて目をつぶり集中する時間をとっているのに、クリスチャンはなおさら主の前に祈りを捧げるべきではないのか?という問いです。
スピリチュアルであるべき
祈りと瞑想は似て非なるものです。しかし、時間をとり、世俗を離れて一人になり、目をつぶり、何かに集中するという点では全く同じです。瞑想においては、自分の内なる声やまとまっていない思考を整理するなど内向きなものですが、クリスチャンは主に集中し、主の御声を聞くことに集中します。
そうい意味において、クリスチャンはもっとスピリチュアルであるべきだと思うのです。僕は自分にこのような問いをかけます。「僕は今日祈ったか?何分祈ったか?自分の願い事ばかり申し立てたのではないか?主の御声を聞いたか?主と霊的な深い交わりに入ったか?」
神道的な祈り
東南アジアやインドでキリスト教が増えているのはそういった理由からだと思います。もともと、自分が信じていた宗教で祈る習慣があったので、祈る対象をキリストにスライドするだけで霊的な生活ができるようになったというものです。
しかし、日本の神道は神社の前で手を合わせて数秒から数分自分のお願いを申し立てるだけです。そもそも、神道には祈りの習慣はなかったのです。だから、祈りの習慣がない民族にキリスト教の祈りが入ってきたとしても神道的にお願いごとだけをいう祈りしかできないのです。
しかし、祈りとは霊的なものです。スピリチュアルなものです。「祈りによって聖霊を高める生き方」にチャレンジしたいと思います。