1601_疲れているからこそ走るという選択

慢性的な低空飛行

最近はまっている「両極端に振れ切る」ということを今日も書きたいと思います。ここ数年、夏は恒例行事のように体調不良になっていました。コロナに罹患したり、熱中症で搬送されたり、何かとぐっと落ちるイベントが起こっていました。今年は、体調不良はありません。しかし、数か月慢性的な低空飛行が続いていてなんともぱっとしない日々が続いています。

夫婦で聖書を音読したり、読書する時間をとったりしても低空飛行感から抜けきれないのです。

内なる欲求

そんな日々を過ごしている中で、ある時、「走りたい」という気持ちが起こってきました。ランニングアプリを見たら2024年11月から走っていませんでした。筋トレも数か月していませんでした。これは内なる自分からのサインだと思い走らないといけないと思いました。

何度かランニングに行こうとチャレンジしましたが、都合が合わず走れませんでした。もし一時の思い付きだったら、それで終わると思います。しかし、今回は内なる欲求がそれを終わらせませんでした。ことあるごとに、何とかして走れる時間を確保したいと思うようになりました。

疲れているからこそ走る

そして、先日、あいにくの雨の中でしたが走りに行くことができました。最初は久しぶりだから3キロくらいでやめようと思っていましたが、結局6キロくらい走ることができました。僕はまた「両極端に振れ切る」という言葉が頭の中に浮かびました。僕はここ数か月疲れているから寝るという選択をしていましたが、逆に疲れているからこそ走るほうがいいとさえ思いました。

なぜなら、間は魂、精神、身体をもっています。すべてをバランスよく振れ切ることで健全になると思ったからです。

小声ですが異言で祈る

今回のランニングでは、最初に4キロ走って、そのあと2キロほど歩き、それからまた2キロ走るということをしました。僕は2キロ歩く中で祈りながら歩きました。そうすれば、身体だけでなく、魂も恵まれる時間を過ごすことができると思ったからです。そして、小声ですが異言で祈ることにしました。家にいると祈るまでに時間がかかることがありますが、外にでると気分も開放されてすぐに祈りこむことができました。

正直に書くと、今僕は行き詰っていることを感じています。もしくは、暗いトンネルの中を歩んでいるような気もします。それが低空飛行というイメージにつながっているのだと思います。もちろん、信仰が弱っているわけではありません。しかし、今はそういう時なのだと受け入れています。すべてのことには時があるからです。

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