伝えないと損
僕が20代の頃はは思ったことは絶対に伝えるべきだと思っていました。そして、中国に滞在する期間が長くなると、その傾向はますます強くなりました。なぜなら、中国では言葉でしっかり主張しない損をしてしまうからです。吹っ掛けられたら値切り、割り込んできた人を咎め、いちいち自己主張しないと損をするばかりになってしまいます。
中国から帰ってきてからもその性質がかなり残っていました。伝えないと損と思っていたので、思ったことは全部伝えていたと思います。周りから見た場合、場合によってはわかりやすい人間だったと思いますが、多くの場合は、面倒なやつだと思われていたと思います。
伝えたあとの虚しさ
しかし、日本で生活する中で、また色々な人間の感情が絡んだ問題にぶち当たった時、ようやく、必ずしも自分の思ったことを相手に伝えることが正しいとは思わなくなりました。以前は理論武装して自分の意見を貫き通して、相手を論破することに喜びを感じていました。それは一種の快感にもなっていたのです。
しかし、一言も言い返すことなく、黙していた人の顔を見た時に、自分の意見を貫きとおすことの虚しさを覚えたのです。説得するよりも、論破するよりも、時には正しいことを伝えることよりも、伝えない選択をすることがいい場合が意外にも多くあることに気づいたのです。
伝えなかったお方
人は理屈では動く生き物ではありません。人は感情で動く生き物です。たとえ、意見を通して論破できたとしても、それは虚しいことです。そこには一瞬の快感があるだけで、とても冷たいものです。そこに、建設的で人と人との関係を強固にするような温かい感情はありません。
だから、「伝えないこと」を選択できるようになりたいと思っています。聖書のコリントⅠ13章の愛の書の最後はこのように締めくくられています。
そして、
すべてを忍び、
すべてを信じ、
すべてを望み、
すべてを耐える。
イエス・キリストご自身が、不正な裁きによって殺されようとしている時に、一言も言い開きをせずに黙しておられました。それがたとえ、「自分の言いたいことが正しかった」としても、反論されませんでした。
キリストにあって
僕に必要なのは忍ぶことです。また耐えることでもあります。それが、もしただの我慢であれば、いずれは鬱憤が溜まって爆発するでしょう。しかし、キリストにより頼み、キリストの愛を受けるなら、僕もキリストにあってそのような生き方が必ずできると信じています。