0708_満足は差分でしか感じられない

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基準点以上で満足

本当の満足というものは差分でしか感じることができないのは本当だと思います。例えば、とっても美味しい高級な「おあまおう」を食べると、スーパーで売っているいちごがそれほど美味しくないと思ってしうことがあります。それは、基準ができてしまい比較対象ができてしまうからです。

あまおうを10点とすると、それ以上の満足を得ようとすると10点以上の満足が必要になるということです。スーパーで売っている少し甘酸っぱい美味しいいちごが8点であったとしても、10点のあまおうのほうが美味しかったと思ってしまうのです。

舌が肥えると

これは僕の実体験とも一致します。僕の子供の頃は比較的節約志向の強い家庭だったので、贅沢はほとんどしませんでした。しかし、僕を含む兄弟3人がそれぞれ、自立していくにつれて、家族で旅行に行ったり、美味しいものを食べに行ったりするようになりました。

取り寄せのギフトや美味しいケーキなどを食べるようになると、子供の頃は美味しいと感じていた街の小さなケーキ屋の味に満足できなくなってしまったのです。甘すぎるとか、なんか昭和感あるねとか、オシャレじゃないね、などと嫌でも思ってしまうのです。

当たり前になる時

これは僕にとってとても悲しいことでした。あらゆるものにおいて、基準点が高くなってしまうと、「本当は食べられるだけで感謝なことである」にも関わらず、感謝な気持ちが薄れてしまっているのです。

それは食べ物に関わらず、すべてのものに共通します。仕事、教会、家庭、居住、人間関係、各種娯楽、慣れてしまうと、感謝な心が失われてしまうのです。例えば、就職した当時は雇ってもらえるだけでありがたいと思っていたのが、わずかなことで不平不満が出るようになったとか、あるかもしれません。

対策

もし、そういった状態になってしまった時に改善策はいくつかあります。1つ目は単純に基準点を下げることです。舌が肥えてきたら、食べられるだけで感謝だと思えるような選択をしたり、節制することです。

2つ目は想像力を働かせることです。世界を見渡すと、日本が相対的に非常に恵まれた国であることがわかります。また過去を見ても戦後日本は最貧国のような状態でした。そういった状況と比較したら、今は食べられるだけで満足だと思えたりするものです。

3つ目は神様に目を開いてもらうということです。人間は神様に心の目を開いてもらわない限りは、本当の意味で感謝な心は湧いてきません。なぜなら、神様の恵みや感謝は心の目が開かれる時に明らかになるものも多いからです。それなしには、完全にすべてのことに感謝するのは人間には限界があるからです。

僕は今は、お腹が空いているという状態を自分に課して、食べられる感謝を感じようと思っています。

おっさん
■感謝な心はあるが、心の目が開かれる時に本当に感謝なことが明らかになってくる

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