1598_いわば中二病のようなもの

人生に対するある種のさとりのようなものを得る

自分のこどもの命がそう長くないかもしれないとわかってから自分の価値観が全く変わってしまいました。それは何も特別なことではありません。それはこれまでもありました。むしろ、人生で誰もが経験することだと思います。

たとえば、多感な時代に友人関係のつまづきから、結局自分は孤独な存在なんだということを知ったり、あるいは、失恋して完全な愛など存在しないことを知ったり、自分の中にある罪深さを垣間見たりなど、いわば中二病のようなものです。人間はその時その時において、人生に対するある種のさとりのようなものを得るものです。

死は決して特別なものではない

そのことに関して、死は決して特別なものではありません。自分の命、家族の命が失われるのはごく自然なことで、いつでもだれにでも起こり得ることです。しかし、不思議なことに普通に生きていればそんなことは思いもしません。

むしろ、あたかもこの命が80歳くらいまで続くと思っています。もしかしたら、現実には不可能だとしても感覚としては、永遠にさえ生きられるとさえ思っているかもしれません。事実自分がそうでした。僕は死に対するとらえ方や考え方が至っていなかったのだと思います。

命ほど軽んじられ命ほど尊い

今年は戦後80年です。この時代ほど命ほど軽んじられ、また命ほど尊いと思われた時はなかったと思います。死は恐ろしいほどに身近なものだったのです。それは決して過去に限定されるものではなく、現代においてもウクライナ、中東、ミャンマー、アフリカなどで戦争、紛争、内戦が続いています。現代においても命は軽んじられ、一方で命は尊いと思われています。

僕は今全く同じことを思っています。僕は自身のこどもの生死に関して何もできません。そう考えると、命は本当にあっけないです。また死に対して無力です。しかし、そうであっても命は尊いものです。なぜなら、それは神が創造されたものであり、神が命をすてるほどに価値のある尊いものだからです。

自分がすべきこと

僕はこれまでブログで霊こそが大切で、肉は軽んじられるべきもの書いてきました。肉を無力化して霊を活性化させるというようなことを書いてきました。なぜなら、肉はこの世だけのものですが、霊は永遠に続くからです。今もその考えは変わりません。

しかし、この肉の体がなければできないことも多くあると考えるようになりました。つまり、天のふるさとに帰るまでに自分がすべきことです。命に対して確かにリミットがあります。これまでも逆さんしてというようなことはやってきました。しかし、頭ではなくて価値観がかわることによって自分がすべきことが明確になってきたと思います。

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