内なる人
クリスチャンになって変わったことのうちの一つに、内なる人を見るようになったということが挙げられます。これは目に見えるものは一時的であり、見えないものこそ永遠に続くのであるという言葉に集約されています。さらに神は霊であるから、礼拝する者も霊とまことをもって礼拝すべきとあります。目に見えないお方を目に見える方法で礼拝するのではないということです。
もちろん、様々な儀式や賛美などは目に見えるものですが、それらはいわば目に見えないものの触媒として働いているだけで、本質は目に見えない霊的なものとまことだけです。
霊とまこと
神の前に出るには霊とまことこそが重要だとわかると、そこに注力する生き方に変わります。礼拝や奉仕などだけではなくて、家庭や職場など日常生活においても、それこそが重要だとわかってきます。これが内なる人だからです。いくら神様の前に自分は正しいことができていると思っても、行動は必ずしも心の中を反映するものではありません。それはエレミヤ書にもこのように書かれています。
心はよろずの物よりも偽るもので、
はなはだしく悪に染まっている。
だれがこれを、よく知ることができようか。
エレミヤ書17:9
問題がないように思える自分自身
僕自身は行いにおいては一見、非がないと思えていても心の中では神様から見たら完全にアウトというような状態があります。本当に外から見えるものはその人の一部分であり、氷山の一角です。もし自分が家庭や職場や教会における行動で、「自分はできている」と思っていたとしても、それはその人自身の本質を表すものにはなりません。何度も書いているとおり、本質はその人の霊であり、神様に対して嘘偽りのない心(まこと)だからです。
僕は一見、問題がないように思える自分自身が実は致命的なほどに問題があるように思っています。それは行いにおいて自分はできていると自分の義を立てようとしていることであり、神様の前に正直に生きていないからです。
くすぶっている内なる人の状態
これまでの自分自身の経験からいっても、神様との関係がたとえ悪くても、また心が汚れていてもかなりの程度まで人にバレずに隠し通せるものです。それは、言い換えれば行きつくところまで行ってしまっても、人間はその状態になかなか気づけないということでもあります。
だからこのくすぶっている内なる人の状態が、気づかぬうちに延焼、類焼しないように悔い改めの祈りをしようと思います。