1904_愛がなければ聖書の話もすべて虚しい | 主が語られたいこと

当日の1週間前

先日CSのお楽しみ会で聖書の話とアイスブレイクのゲームをさせて頂くことになりました。僕は過去にCSの奉仕で下記のような失敗をしたことがありました。

当日の1週間前にアイスブレークと説教の導入のアイディアが来ました。アイスブレークに使う動画はその週の中頃に完成したのですが聖書の話は導入から全く導きを感じることはりませんでした。

主の前に出る

僕の中では今回思いついた導入で聖書的な教訓を得ることができ、かつ笑いもとれると思っていました。しかし、当日2日前の時点で、これは違うと思いました。金曜日の夜仕事が終わってから部屋にこもりました。電気を消して、主の前に出ました。

「僕は自分が思いついたアイディアを捨てます。主が語りたいと思われることを教えてください。」

1時間ほど主と深く交わり祈る中で主が語られたことがありました。それは「わたしはここにいる」というキーワードです。これはイザヤ書65章1節の御言でした。

イザヤ書 65:1
わたしはわたしを求めなかった者に問われることを喜び、わたしを尋ねなかった者に見いだされることを喜んだ。わたしはわが名を呼ばなかった国民に言った、「わたしはここにいる、わたしはここにいる」と。

主が語られたいこと

そこから、さらに御言が2つ与えられて、3つの御言一つの線になり導入から最後まで繋がりました。僕はその時に思いました。それは「自分で最初から考えてはいけない。最後から主に教えられないといけいない」ということです。

主が子どもたちに語られたいことを教えてもらわないといけない。

たとえ、僕が語りたいことが聖書の言葉であっても、聖書的なことであっても、もしそれが主が子どもたちに語りたいことでなければ、それは空しいことです。

愛がなければ

また僕の中に子どもたちに対する愛がなければその聖書の話も虚しいです。そして、僕は僕の中にそういった愛は少しもないことを知っています。僕は冷淡で無関心で自分のことしか考えていないからです。

しかし、主の前に出て祈る中で主ご自身がこどもだちを深く愛しておられるのがわかりました。子供たちの心にある暗闇、悲しみ、痛み、苦しみ、束縛、主はそこに働きかけて主ご自身の光で照らし、光で満たし、愛で満たし、いかに大切に思っているかを伝えたいと思っておられると感じました。

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