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ランニングで見える景色が変わった
今年からランニングを再開させてまた新たなフェーズに入りました。今までは往復で8キロが限界だったのですが、片道5キロで一回区切り、往復10キロくらいまで走れるようになりました。長い距離が走れるようになると、その分、見える景色が変わるので新鮮でとても面白いです。
とくに今住んでいるところは生まれ育ったところではないので、自分の生活圏のマップがどんどん広がっていく成長感が嬉しいのです。これから春に向けて景色に彩りも出てくるのでランニングが楽しみです。
見える成長は嬉しい
ランニングの場合、毎回同じコースをずっと走っていても身体能力や心肺機能は高くなります。しかし、それは目に見えない成長で、成長を感じるには一定の期間が必要になるものです。その一方で、距離が伸びるとともに見える景色が変わるのは見える成長です。
木の根が土の下に広がっていく目に見えない成長も欠かすことはできないですが、枝の先に芽を出すような目に見える成長も同じく大切です。長期的に見た場合、絶対的に大切なのはすべての基礎、土台になる根なのですが、見える成長はそのままモチベーションに繋がります。
なかなか見えない成長
人生における成長でも、原理原則、土台、基礎系は結果に現れるのに一定の時間がかかります。いい行動を習慣化させ、それが無意識に自然に実行できるまで人格に落とし込むには数年単位の時間が必要になることが多いです。早寝早起きの習慣や先送り癖を直すなどは数ヶ月で身につけることができると思いますが、誠実、素直、寛容などは一長一短に身につくものではありません。
様々な状況にさらされてもなお、誠実でいること、不平不満を言わずに寛容な心で対応すること、これらを完璧に実行するにはかなり時間がかかると思います。もちろん、それほど過酷な刺激がない環境だと実行できているように勘違いしてしまうかもしれませんが、ひとたび、なかなか面倒な人間関係の中に放り込まれると寛容でいるということが難しくなったりするものです。
クリスチャンの成長
クリスチャンの場合も、当然のことながら、洗礼を受けて聖霊を受けたからといって、それで人として完成するわけじゃありません。むしろ、聖霊を受けることによって、神の聖さに触れた時に自分の汚さのギャップを知って、そこから神に近づくということがようやく始まるのだと思います。
僕の場合、定年がある前提で話をすると、すでに折返しのフェーズに入っています。残りわずかの人生で、どこまでイエス様に近づけるかわかりませんが、遅々としながらも、神様の聖さに近づいていきたいです。