主と出会うこと
クリスチャンじゃない人からしたら、余計なおせっかいかもしれないけど、「周りにいる人々がイエス様に出会ってほしい。」と思うのが真実な思いです。なぜなら、僕ですら主にお出会いすることによって変わることができたからです。それは安易な一過性、瞬間風速的な「私は変わることができました!」というようなものではなくて、当時から今も影響を与え続けている非常に力強いものです。
「もし、主とお出会いしていなかったら…」と考えたら、とてつもなくあらぬ方向に行っていたと思ってしまいました。自分だけがあらぬ方向に行くならまだしも、きっといつも不機嫌で、いつも周りを傷つけながら、いつも孤独で、自分が世界の中心にいるはずなのに、いれないのはおかしいと厨二病のようなことを思っていたのだと思うのです。
生きる目的、生きる方向、価値観の転換など基本姿勢が変わっただけでなく、実際的に僕の日常に介入してくださり、力、知恵、励まし、慰めなど必要に応じて、随時助けを与えてくださっています。
たった一つのこと
じゃあ、このような恵みに与った自分は何をすべきなのか?と思った時に先日見たTwitterを思い出しました。この言葉によって自分の中で大切にしているもの、自分にしかできないものが見えてくるというのです。逆に言うと、不必要なこと、それほど重要でないことを断捨離できるというのです。それは、
「たった1つしかできないとすれば、何をするだろう?」
というものです。クリスチャンがこの問いを回すとどのような答えが返ってくるでしょうか。おそらく、ほとんどのクリスチャンが「福音宣教」になるのではないでしょうか。それが最も神様に喜ばれることであり、それこそが天に残るものであり、天で大いに喜ばれることであり、最も価値のあることだからです。イエス様が福音書でされた癒しや慰めや回復が実際に人々のところに行き届くのを望んでいると思います。
たった一つのことを避ける思考
しかしながら、僕自身は「日常」という言葉を使って「福音宣教」に向き合わない、あるいは、避けようとしていることを知っています。否定できない厳しい事実は、僕がイエス様からほど遠いところにいるのだと思います。
イエス様を心の中に宿している人こそが、イエス様を周りの人たちのところに届けることができます。それは聖霊に満たされている人とも置き替えられるかもしれません。
毎日の生活、日常、仕事、家事、趣味、色々やること、これらは確かに生きる上で必要かもしれませんが、すくなくとも僕の中では、「たった1つしかできないとすれば、何をするだろう?」という問いに当てはまるものではありません。
自分自身の心は今日も異常なほど貧しいので、イエス様を求めて生きたいです。
こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
マタイ5:3