神様の偉大な働き
いろいろな信仰書を読んでいると偉大な神のしもべと言われるような人たちがいることを知ります。その指導者の周りでは、イエス様が生きていた時代と同様に、様々ないやしや奇跡やしるしが起こっているのです。福音が伝わると同時に盲人の目が開き、難病が癒やされ、悪しき習慣から開放され、次々と主に帰依する人たちが起こされているというのです。
こういった書籍を目にすると「すごいなぁ」と神様の働きに感嘆する一方で、僕が信じている神様と同じはずなのに同じじゃないような気がしてしまう時があります。その感覚は、僕が中国で起こっているバイバルに興味を持った時と似ているかもしれません。
同じ神様を信じているはずなのに、隣の国では熱いが僕はぬるい。同じ神様を信じているはずなのに、遠い国では福音と奇跡がセットで広まっているが、僕がいるところではそのようには見えない。というものです。
絶対条件として、イエス様が奇跡をおこせるかどうかは、信仰があるかどうかにかかっています。福音書にもそのようにかかれていました。
先進国では奇跡はあまり起きない?
先日読んだ書籍にはアフリカで起こっているリバイバルのことが書かれていました。確かに多くの場合、福音宣教に伴う超自然的な奇跡は南半球などで多いように思います。もちろん、現在の日本においても、欧米諸国においても癒やしの奇跡などはあると思います。
ただ、事例数や規模でいれば、圧倒的に貧しい国のほうが多いのではないでしょうか。前提として、経済的な欠乏がある場合、相互依存がなければ立ち行きません。人と人が助け合わないと生きていけないのです。もしかしたら、そういった人たちは、イエス様に全幅の信頼をおくのが得意な人たちなのかと思います。
頼ることが苦手
一方、現代を生きる日本人ほど頼るのが苦手な国民はいないかもしれません。コロナ禍で多くの人達が誰にも相談できずに孤立を深めています。僕自身もできるだけ1人でやりたいタイプの人間です。人に頼るということは、自分の弱さを見せること思っているのかもしれません。そんなプライドは全く不要で、実際は相互依存によりシナジーを生み出すことができるはずです。
あるいは、弱さを感じておらず、そもそも、自分でできてしまうから誰かに頼る必要はない。または、遠慮して誰かにより頼むことがうまくできない、という場合もあるかもしれません。
しかし、本当はもっと人にも頼ってもいいのだと思います。むしろ、頼る必要がなくても頼ってみることもいいかもしれません。そして、頼り上手になれれば、最も信頼できる神様に全幅の信頼を寄せることができるかもしれないと思っています。自分の中での問題は、神様に遠慮していること、また弱さを見せるのが恥ずかしいと思っていることなのです。