0432_古きを訪ねて新しきを知る

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体感する便利さ

世の中どんどん便利になっていきますが、昔を知っているからこそ今の便利さが初めてわかるものです。物心をついた時からスマートフォンに触れている世代は、スマホがどれほど発明的なもので便利なものなのか、本当の実感をもって知ることはできないでしょう。

僕の記憶の中にあるスマホに代わる最も古いモバイル端末は姉が持っていたポケベルです。ポケベルを使って何やらメッセージのやりとりをしている姉がかっこよく見えたものでした。

ポケべルよりも昔となると、おそらくショルダー式のごっつい携帯電話あたりになるのかなと思います。それすらも現物は見たことがなく昔の映像で知っただけです。

もし、今の世界がどれほど便利になったかを知りたければ、書籍や映像などで、昔の様子を知って、頭の中で昔の不便さを想像すればいいと思います。それによって、一時的にでもある程度まで今の便利さに気づくことができます。

プログラミングの温故知新

例えば、進歩の早い分野にプログラミングがあります。次から次へとプログラミング言語や開発をより高速にするフレームワークや便利なライブラリが世に送り出されています。昔のプログラミング言語だった何百行も書かないといけなかったプログラムがたった数行で書けてしまうといったことや、大規模開発であってもバグが出にくいような仕組みが作られたりしています。

昔のプログラマーが今の開発を見たら、非常に便利で楽になったものだと思うと思います。しかし、僕なんか、最近のフレームワークをちょっとかじったくらいの者には、本当の意味でそのフレームワークの便利さは体感できていないのだろうなと思っています。

聖書の温故知新

聖書も全く同じです。新約聖書だけを知っているだけでは、神様の恵みを本当の意味で体感することはできません。昔の契約、つまり、旧約聖書を知ることによって、今が恵みの時代であることがわかるのです。

しかも、昔を知れば知るほど、今の恵みが増し加わるので、旧約聖書を知ることは新約聖書を知ると同じくらい重要なことだと思います。

人生の温故知新

主と共に歩む人生も同じだと思います。もし今の恵みだけを見ていたら、神様の恵みになれてしまう危険性があります。当たり前の恵みになってしまうのです。しかし、救われる前の自分はどんなであったのか、どんなことをして、どんな実を結んでいたのか、を思い出したりすると、今の恵みが増し加わります。

聖書にはこのように書かれています。

「義を追い求め、
主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。
あなたがたの切り出された岩と、
あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ。」
イザヤ51:1

「古きを訪ねて新しきを知る」という言葉は本当に核心をついているな~と思いました。

おっさん
■温故知新という言葉は核心をついている

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