1941_自分の肉が憎くてたまらない | なぜ主と共に生きることに失敗するのか?

理解しがたい疑問

クリスチャン生活を送る中で理解しがたい疑問があります。それは「僕にとって、なぜこれほどまでにも主と共に生きることが難しいのか?」という疑問です。聖書の教えは明快です。悔い改めから始まり、古い自分から180度反転させて主の方向を向き、主と共にいきるだけです。

それは僕も頭ではわかっています。しかし、僕にとって聞けば簡単に思えるようなことでも、そのとおりに生きるのはまた別の話で決してやさしいことではないと思っています。

主はいつも共にいてくださる

何度も主と共に生きると決心しても、心の中に油断が生まれると僕はイライラしてしまったり、人を裁いてしまったり、嫉んだり、不信仰になってしまったりするのです。僕の体験によれば、その瞬間に主の臨在は消えてしまうのです。もちろん、広義の意味で主はいつも共にいてくださいます。

たとえ、僕の心が完全に主から離れてしまっても、また仮に罪の中に自ら飛び込んでいくようなことがあったとしても主は僕の心の扉の外でずっと待っていてくださいます。主は確かに共にいようとしてくださっているのです。

僕はどうなのか?

しかし、僕はどうなのか?という自問です。僕は「いつも主と共にいたい」、「いつも主と共に生きたい」と願っているようで内心は願っていないのか、あるいは、肉の側面が顔を出し、主よりも自分のことを優先してしまうことがあるのです。僕は自分が不思議でたまりません。

ブラザーローレンスが言っている、日常における主の臨在というのは、心が汚い状態では決して味わうことができないです。しかし、心の中が汚くなることはこの世では避けることができません。だから悔い改めが必要になります。しかし、自分の肉は悔い改めたがらないのです。僕は自分が不思議でたまりません。

現状、僕の中での「僕にとって、なぜこれほどまでにも主と共に生きることが難しいのか?」に対する対応策の答えはこれです。

  1. できるだけ早く悔い改める(これはどこでもできる)
  2. 聖書の言を読む・宣言する・覚える(これは暗唱していない限り場所と時間が必要)
  3. 短く主に祈る(これはどこでもできる)
  4. 長く主に祈る(時間と場所が必要)

僕は自分の肉が憎くてたまりません。しかし、嘆いても仕方がないので肉を無力化し霊を活性化できるような1日1日を生きていきたいと願っています。

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