1069_人類史上、誰も自分の目で自分を見た人はいない

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盲目的である

なぜ僕はどうしてもこうなんだろう?と思ったことがあります。それは盲目的であるということです。これまでの人類史において、鏡等を使わずに自分の目で自分自身を見た人が存在しないように人間は自身を客観的に見るのが非常に難しい生き物です。

他人のことはよく気づくのに、自分のことは棚において全く気付かないものです。まず、そのことに気づくことが一歩前進なのですが、気づいたとしても客観的に見れるかどうかはまた別の話です。

誰でも自分はできていると思うもの

先日もある人がストイックな生き方をしているというので話を聞いていました。知識量もすごくてすごく勉強になるな~と感心していたのですが、いざ食事となった時にかなりがっつくタイプの方だったので「あれさっきゆってたことと違うやん」と思わず心の中で思ってしまいました。

これはもれなく僕も他の人に思われていることだと思います。「言っていることとやっていること違うやん!」「ブログで書いていることとやっていること違うやん!」ときっと思われているはずです。

第三者が必要

まず、自分だけで自分を客観的にみるのは絶対に無理です。例えば本を読んだり勉強したり、あるいは瞑想や黙想や内省して自分を客観的に見れたと思ったとしても、結局は主観の中の出来事です。

一番効率的なのは、誰かに指摘してもらうことです。何歳になっても自分の悪いところなどを指摘してくれる友達や葉パートナーがいる人は恵まれています。しかしながら、いかんせん、年を取るとなかなか悪いところを指摘してくれるという人は次第に減っていくものです。

それは経験や知識や知恵も増えるに従って、誰かに何かを言われると腹が立ってしまうものだからだと思います。

なぜ腹が立つのか?

きっと腹が立ってしまうのは人間の本能の働きなのだと思います。なぜなら、人間はほとんど生きるために本能によって自己弁護するようになっているからです。だから、自分が否定された時に自分の生存本能が反抗するのです。

しかし、その本能のままに生きていると誰かに何かを言われた時に腹が立ってしまって自己改善にいたりません。

どうすれば客観的に見れるのか?

その一方で神との一対一の関係は人間に正しい姿を見せてくれます。まずは罪びとであるという姿です。そして、人生全体としての客観性は聖書が示してくれます。そして日常生活の様々な具体的なことは聖霊が教えてくれます。

とかきつつも、霊的な領域において神様との親密な関係がないとなかなか具体的なところまではわからないものです。だからこそ、神に近づいて自分を客観的に見れるようになりたいと思っています。

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