1843_キリスト教のワンネスと三位一体

イエスの名によるバプテスマ

キリスト教には「ワンネス」という教義があります。それは天の父もイエス様、聖霊もイエス様という立場の教義です。その理由として使徒行伝で弟子たちは父と子と聖霊の名によってバプテスマを施していないからです。弟子たちは一貫して「イエスの名によって」バプテスマを施しました。

確かにマタイの福音書でイエス様が弟子たちに「父と子と聖霊の名によって」バプテスマを施すように命令されました。しかし、父も子も聖霊も名前(固有名詞)ではなく、父と子と聖霊の名こそがイエスだという立場をとっています。

ふたりの証人または三人の証人

また、ある人はこのように言っています。聖書の原則は「ふたりの証人または三人の証人」が必要だという点です。聖書には様々なことが記載されていますが、一か所だけに書かれていることをすべての人に適用することはできないという原則です。

たとえば、聖書にはアブラハムがしもべを遣わせてイサクの配偶者を探しに行く場面があります。しもべはそのしるしとして「らくだに水をやってくれる人」としました。そして実際にそのとおりのことが起こったのです。しかしこの記述は聖書にはこの箇所にしかありません。だから、すべての人には適用できないという考え方です。

回数か?権威か?

そして、驚くべきことに「父と子と聖霊の名によって」との命令はマタイの福音書にしか記載されていません。しかし、「イエスの名によるバプテスマ」は使徒行伝に4回記載されています。だから、これを適用するというのです。

僕はワンネスと三位一体の教義の議論を見た事があります。しかし、このバプテスマの方法に関してはほとんど議論がされてこなかったかと思っています。なぜなら、いずれも聖書に記載されており、イエスの名によるバプテスマのほうが記述回数は多いからです。

ある人は、記述回数よりもイエス様が言ったほうが重要と考えるかもしれません。しかし、命を捨てるまでにイエス様に従った弟子たちがなぜか父と子と聖霊の名によってバプテスマをほどこさなかったのは疑問です。

神観問題

ここ数日ずっと僕の神観について書いてきているように、僕自身は「天の父もイエス様」というのは無理があると思っています。

イエスの名によるバプテスマの方法に関しては聖書に記述が確かにあります。しかし、わざわざそれをワンネスという神観に落とし込む必要が果たしてあったのかという疑問があります。

さらに、現在キリスト教会では三位一体以外は異端とするのが定説です。しかし、人知を超えた三位一体という啓示を人間がそのような運用に落とし込むことができるのだろうかという疑問は残っています。