1874_AGERE CONTRA(アジェイラ コントラ)という考え方 | 変えられることについて

主は心を見る

今日も「主にあって変えられる」ことについて書きます。「主にあって変えられる」と書くとその主体は主にあるように思ってしまいます。変えられる側は何もしなくてもいいとさえ思ってしまいそうです。しかし、それは違うと思っています。なぜなら、人間の側には信仰、姿勢、取り組み、本気度が求められるからです。

そう書くと少し律法主義のようにも思えますが、新約聖書でイエス様と出会い変えられた人たちはすべからずこれらのものが整っていました。長血の女、孤独なザアカイ、盲目のバルテマイ、ベテスダの池での足の不自由な人、彼ら、彼女は信仰、姿勢、取り組み、本気度の条件が整っていたのです。

それは聖書にある通りです。主は心を見てくださっているのです。そしてその心に対して働きかけてくださるのです。

サムエル記上 16:7
しかし主はサムエルに言われた、「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」。

耳に痛い話

いつの時代においてもイエスキリストは昨日も今日も、いつまでも変わらないお方です。もし人が変わらないなら、それはその人の信仰、姿勢、取り組み、本気度に問題があるということです。これは耳に痛い話ですが、本当にそうだと思います。「主に変えられる」と宣言していても何もかわりません。

決意し本気で取り組み主にはで切るという信仰をもって求めていくときに、主はその心を見てくださり、造り変えてくださると信じています。

AGERE CONTRA(アジェイラ コントラ)

造り変えられる中で一つヒントになる考え方があります。それは現在読んでいるイグナチオ・デ・ロヨラ著の「霊操」に書かれていました。それはAGERE CONTRA(アジェイラ コントラ)という考え方です。これはラテン語で、「反対に行動する」「逆らって行う」という意味です。

たとえば、怠けたいと思ったら、あえて行動する。偉くなりたいと思ったら、へりくだる。怒りたくなったら、静まる。のように「自分の不健全な傾向に対抗する行動を意志的に選ぶ」ということを意味します。

小さな行動の中

ここ数か月僕は食に対する欲が強くなっていることを感じていました。それまではお昼に自分でつくったおにぎりを持っていっていたのですが、なぜか食の欲望が強くなって外食が増えてしまっていたのです。そこで僕はこの小さな行動の中でAGERE CONTRAを実践することにしました。

外食したいと思ったら、粗末なご飯で済ませるという選択をするようにしたのです。その流れて、最近は毎朝オートミールだけを食べるようにしています。それが「何なんだ?」と思われるかもしれません。しかし、僕にとっては自分が変わるためには何でもチャンレンジして取り組みたいと願っています。

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