自分のほうに引き戻していく
昨日は「主に明け渡す」過程が救われる過程と全く同じであることを書きました。僕は救われた時、確かに明け渡すことを知っていました。「主がいなければ私は生きることはできない」や「主こそが私の幸いであり喜びである」という告白は少しの疑いもなかったのです。
しかし、信仰生活を続ける中で僕は次第に委ねていた部分を自分のほうに引っ張るようになっていたのです。救われた時よりも自分でできること、経験も持っているものも増えたからです。僕の傲慢な心が語りかける「それでええやん」という言葉を受け入れてしまっていたのです。
このままではいけない
しかし、心のどこかでは「このままではいけない」という焦燥感がありました。今はこの状態で何とかできているかもしれない。しかし、将来、この世界全体が揺り動かされるような出来事が起こった時に僕は信仰を保つことができるのだろうか?と思っていました。
この時の状態はこの言葉に集約できます。
列王紀上 18:21
そのときエリヤはすべての民に近づいて言った、「あなたがたはいつまで二つのものの間に迷っているのですか。主が神ならばそれに従いなさい。しかしバアルが神ならば、それに従いなさい」。民はひと言も彼に答えなかった。
またこの言葉にも集約できます。
ヨハネの黙示録 3:15
わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。
僕の自由だ
確かに信仰生活はしているように見える。教会には行っているし、やるべきことは抑えている。しかし、このままじゃいけないと思っていたのです。なぜなら、僕は平日を主と共に生きていないと知っていたからです。
もっとも、24時間あるうちの少しは主と共に生きていました。しかし、宗教行事的になってしまっており、「これさえやったらあとは僕の自由に生きるね」と言わんばかりに平日を生きていたのです。
再び燃える
「わかっちゃいるけどやめられない」の失望を長い間、繰り返す中で転換となったのは一つの御言に振れた時でした。これは聖霊の働きであると確信しています。このことはブログにも書いていました。
1691_心配するなって!何でも祈ったらいいんだよ!君の必要を神様に伝えるんだ。そして、彼がしてくださったことに感謝しよう。
“Don’t worry about anything; instead, pray about everything. Tell God what you need, and thank Him for all He has done.”
Philippians 4:6
この英語で書かれた聖書の御言がストレートに僕の心に入ってきたのです。当時、僕は一向に変わらない自分に対して失望していました。そして、もう無理だとさえ思っていたのです。しかし、この御言が聖霊によって活性化した時に、僕の心の中で消えかかっていた小さな火が再び激しく燃え始めたのです。それはモーセが見た燃え尽きない柴と同じものであると信じています。













