数時間は生きられるかもしれない
先日、おなかの中にいる赤ちゃんは生まれても生きられる可能性は限りなく低く、助産師よりいよいよお葬式の準備も進めるようにと言われたと書きました。赤ちゃん用の棺桶を手配し、骨壺も買いました。僕たち夫婦のメンタルのどん底はこのあたりだったと思います。
これまで、夫婦として赤ちゃんが生まれるタイミングは赤ちゃん本人に委ねたいという気持ちが強く自然分娩を考えていました。しかし、後日、お医者さんより赤ちゃんの様子をMRIで撮影したいと申し出があったことにより、いろいろと方針が変わってきました。MRIの結果、赤ちゃんの右の肺が比較的成長しており、生まれてからも数時間は生きられるかもしれないということがわかりました。
早く終わってほしい
そのため、自然分娩ではなくて日付を確定して帝王切開で出産ということになりました。夫婦二人で「これは主が導いてくださったことだから、そうしよう」と一つの意見にまとまりました。
これまで僕は非常に情けないながら、この辛い悲しい期間が早く終わってほしいとさえ思っていました。悲しみのピークはきっと赤ちゃんが天国にすぐ帰ると分かった時だと思っていたからです。だから、その日までは耐え忍ばないといけないと思っていました。
それに従うべき
しかし、先日その考えは間違っていると思ったのです。なぜなら、それは逃げだからです。僕が教えられたことは、この耐え忍ばないといけない期間は僕が死ぬときまで続くということでした。そういう意味では本当に今回の出来事は僕の生き方を完全に変えてしまったとさえ言えます。
しかし、僕はそれを不幸だとは思いません。むしろ、主がそのように導いてくださり、そのようにすべきだとおっしゃったのだから、それに従うべきだと思ったのです。これまでは、僕はクリスチャンとして、のほほんと生きてきました。主の恵みに甘えて、なれ合い、なぁなぁで生きてきたのです。
主はその告白を忘れていない
それっぽくクリスチャンぽく生きつつも、自分のしたいことはしっかりして、自分が楽しいと思うことをして緊張感のない日々を送っていたのです。しかし、このような生き方はどうでしょう。ある人からしたら別に普通のことと思うと思います。しかし、僕は、過去に確かに主にこの人生を捧げるという告白をしてしまっているのです。
主はその告白を忘れてはおられません。だからこそ、主はその捧げることを実践するために僕を別のステージに行きなさいということを教えてくださったのだと思っています。