僕自身は全く正反対の人間
僕は今それが打率100%で実行できているかは別にして、このような者でありたいと願っています。それは「自分には厳しく、身内には比較的厳しく、他人には優しく」というものです。なぜこのような言葉を回しているかというと、僕自身は全く正反対の人間であることを知っているからです。つまり、僕は往々にして「自分と身内に甘く、他人に厳しい」と思っているからです。
だから、主に自分の弱さを認めて変えられることを強く願いつつ、自分ではこのような言葉を回して自分を制御しようと努めています。
自分に厳しい人は他人にも厳しい
一般的に言えば、自分に厳しい人は他人にも厳しいと思います。そして、僕が38年間生きてきた中で思うことは、そういう人であっても意外に身うちには甘いということです。別に人を裁くつもりはなく、事実と目に見える現象として教会内を見れば、信仰面において自分の子供に甘い両親は結構いると思っています。
にもかかわらず、奉仕などに関しては兄弟姉妹に異常に厳しい見られる人がまぁまぁいたります。
人間はすぐに安きに流れてしまう
だから僕は、身内には自分ほどには厳しくしないけれど、比較的厳しくしたいと思っています。その前提はまず自分が自分の厳しさを生きていることが前提になりますが。
なぜなら、そういうふうにしないと人間はすぐに安きに流れてしまうからです。それは聖書の言葉で言うならば、「自分の目には梁があるのに、兄弟の目にあるちりを取らせてください」というようなものだからです。
主にあって
僕はこの言葉であえて「他人には甘く」とは書いていません。なぜなら、先ほどの聖書箇所には、まず自分の目から梁を取り除いた上で、そして兄弟の目にあるちりを愛を持って指摘することを聖書が要求しているからです。
もちろん僕は全く他人のことをどうこう言える立場ではありません。しかし、聖書は決して「なんでもOK」と言っているわけではありません。たとえば、日曜日に何を優先すべきか?など「なんでもOK」という態度でいてはいけないと感じています。
ということを書いていますが、僕自身はまだまだ自分に甘いのでこの言葉を回して主にあって変えて頂きたいと願っています。
主にあって、自分には厳しく、身内には比較的厳しく、他人には優しい者でありますように。