自分の罪深さ
昨日は自分の性質や特徴など周りとの関わりの中で次第にわかってくるものであると書きました。今日も同じ内容で続けようと思います。先日実家に帰った時に3歳上の姉がこのようなことを言っていました。
「この歳になって、どんどん自分の性格の悪さに気づかされている」
姉は保育士をしています。最近、色々と変化が多く大変だそうなのです。立場が変わったり、建て替えのため別施設での保育を余儀なくされていて通常の保育業務や保護者の対応だけでなく、別施設での各種調整など、いわゆる、パッツンパッツンになっているそうなのです。
体力的にも精神的にも能力的にも負荷がかかりすぎると、心の余裕が失われてしまい、自分の悪いところが出てしまうというのです。
年を取ると罪深さに気づく
もしかしたら、年を取って、善行に磨きがかかる人ももしかしたらいるかもしれません。しかし、往々にして、人間は年を取るにつれて、自分の悪いところ、罪深さを多く知るようになるのではないでしょうか。聖書のこの場面はそういったことを表しているのだと思います。
彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
ヨハネ8:7-9
この場面では、姦淫の現場で捕まえられた女性がイエス様のところに連れてこられ、律法によって石で撃ち殺してもいいですか?との問をイエス様に投げかけます。イエス様の答えは明確でした。人は罪人であり、誰も裁く権利がない。唯一神だけがさばくことができる。しかし、神もあなたを裁かず赦します。ということでした。
そして特徴的な描写は、年寄りから始めて出ていったというところです。つまり、年を取ればとるほど、自分の罪深さを知っているので、自分にはその資格がないと悟ったのです。
罪ある者たちの望み
「年を取って自分の悪いところがどんどんわかってくる」というのは非常にネガティブなことかもしれません。しかし、それは神様に近づくチャンスでもあります。イエス様が言われたのは、健康な人には医者が必要ではなく、病人にこそ必要だということです。自分が病人、罪人であるということを自覚している人はイエス様のところに行けば、その罪を赦していただく大いなる恵みに与ることができます。
僕も冒頭の姉のように、善行において、周りの刺激に対する反応の質において、2歩進んで1歩下がる、いや1歩進んで2歩下がるのような状態かもしれません。だからこそ、こんなみじめな存在を憐れんでくださる、そして、確実に造り変えてくださるお方に望みを置くのです。