祈りと御言の境界線がなくなっていく | 主に思いを向ける

主に思いを向ける

主と共に歩む中で、別の言葉を使えば、霊的訓練を通る中で気づいたことがあります。それは、祈りと御言の境界線が限りなくなくなってくるということです。僕が若かった頃は聖書を読むことと祈ることは全く別の体験でした。

それは聖書を読もうとか祈ろうとか言う言葉にも表れています。しかし、これらに共通するのは「主に思いを向ける」ということです。僕はこれまで「主と交わる」という言葉をよく使っていましたが、自分主体の目線で「主に思いを向ける」という言葉のほうがしっくりくるようになりました。なぜなら、誤解を恐れずに書けば主は待っておられるので、あとは「自分」が主に思いを向けるだけだからです。

祈りと聖書

聖書に関しては先日も書いたように霊的なものでありつつも知性の領域と重複しているため、霊で読まずに知性で読んでしまい、霊的なエッセンスや恵みや命を得られない場合があります。しかし、祈りは違います。祈りはそもそも信仰がないとできません。

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考えてみてください。一人部屋にこもって正座をしている人がいます。そこには人が一人しかいません。それをするには信仰が必要であり、霊的なものです。

瞑想とは異なる

もちろん、近年はビジネス界ではメディテーション、いわゆる瞑想、フィットネス界ではヨガなどの瞑想ブームが起きています。しかし、それと祈りは全く別物です。違いは霊的かどうかということと思いをどこに向けるか?です。ここで聖書と祈りの共通点に戻ります。それは「主に思いを向ける」です。

祈りにおいて、御言の引用や宣言は欠かせません。なぜなら、御言こそが霊的なものであるから、これを使わない手はないのです。そして御言には命があるので、祈りに命が沸いてきます。そして御言が心を洗ってくれるのです。

通読の中での祈り

そして、聖書において祈りはかかせません。それは祈りをもって始め、通読する上でいわゆる「自分にひっかかった」御言を心に収め祈るのです。そうすると、聖書を読んでいた時間が祈りの時間に変わります。これは、ただ主に思いを向けているという行為だけなのです。

このようにして、祈りと聖書の境界線は次第になくなっていきます。僕はまだこの訓練の途上にありますが、この境界線が限りなくなくなり、ますます主に思いを向けられるようになりたいと思っています。

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