1930_キリスト教信仰が「知っている」に留まっている理由 | やればできるいわけじゃない

圧倒的な差

誰でもわかっていることですが、難しいことがあります。それは「知っていることとやっていること」の間にある圧倒的な差です。誰でも運動はしたほうがいいとわかっています。しかし、それを実行に移す人はごくわずかです。

また、たとえば語学学習においてテキストをただ読むだけならば、それは知っているだけになります。語学学習は耳と口を存分に動かすことで伸びていきます。もし語学学習で口を動かさないならば、それはジムに行ってトレーニングマシンの椅子に座って何もしないことと同じです。動かさなければ意味がないのです。

信仰がなければできない

これはあらゆる学びにおいても同じことが言えます。しかし、キリスト教信仰ほど「知っている」に留まっている領域はないのではないかと思います。なぜなら、キリスト教信仰においてはやるだけではなく信仰も必要になるからです。むしろ、信仰がなければすることはできません。

たとえば、こういった聖書の御言をいくら暗唱していたとしても、それらを信仰によって実行しようと決意しなければ何の意味もありません。

ガラテヤ人への手紙 5:22-23
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、
柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。

自己否定という肉の痛みを経て

ある人は「ただやればいいだけじゃん」と思うかもしれません。しかし、実際は強烈な自己否定から入らなければなりません。その自己否定という肉の痛みを経て「私にはこの御言は実行できません。しかし、聖霊の力によって私にはできます。むしろ、主が行わせてくださいます。」という信仰によって決意する時に「できる」ようになるのです。

もちろん、その打率は高くないかもしれません。それであっても主と共に生きることを学び、へりくだり、飢え乾き、主の力が自分の中に現れるまでに主を求め続ければ聖書の御言が知っているだけではなくできるようになると信じています。

御言を行わせてください

僕は毎朝、10ほどの聖書の御言を毎日宣言しています。しかし、その度に「できなかった」と思わされることが多いです。そうであっても僕は御言が自分の肉となり血となり、心に刻み込まれ、無意識の中に神様の御心が植え付けられるまで宣言し続けます。

今日も祈ります。

「主よ。聖書の御言を実行するのは僕には無理です。しかし、あなたにはできます。あなたは新しい心、新しい霊を僕の内にさずけてくださり、御言を行わせてくださいます。」

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