霊的な体験
昨日、僕は「自身の信仰告白の際には確かに聖霊が働いていた。しかし、本当に聖霊の証印が押される体験をしたのは聖霊のバプテスマを受けた時だ。」と書きました。その理由としては証印は明らかに確かなものだからです。つまり、もし自身の信仰に不確かさがあると思うなら、それは聖霊のバプテスマをまだ受けていない可能性があるということです。逆に言えば、たとえ、そうであったとしても聖霊のバプテスマを受けるならばそれは確信になるのです。
僕の信仰がアクティベートされたのは、この聖霊のバプテスマを受けてからでした。それまでは信仰告白をしていたとしても、知識における信仰、両親の信仰から抜け出せていなかったのです。さらに僕はいわゆるペンテコステ体験を経て信仰に入っています。そのため、自分の信仰の基本は霊的体験に重点が置かれていました。
霊的な体験から続く御言への飢え乾き
僕はこの事実をネガティブなものだとは思っていません。なぜなら、神様は目に見えない方であり、霊であるお方だから信仰は霊的なものであるべきと思っているからです。そして、この霊的なことには過度な感覚主義や恍惚感の追求、あるいは無知や愚かさは含まれません。
なぜなら、真に霊的なこととは御言に属するものだからです。むしろ、自分が聖霊に満たされれば満たされるほど、聖書の御言への飢え乾きが強くなるのです。主のご臨在に触れる礼拝に出れば、それで「満たされた。十分だ。」とはならないのです。もっと主を知りたいという心の飢え乾きが起こってきます。
知性において実を結ぶ
そして、僕は最近新しいチャレンジを受けています。それは神学が非常に重要であり学ぶべきであるということです。なぜなら、人間はこの世界では霊的な存在でありつつも知性ももつ存在だからです。もちろん、神学がなくても御言があれば救いはあるでしょう。しかし、聖書の神様への深い理解を得るには神学は欠かせません。
また知性において聖書を理解することは、この地上で知性を持つ存在として自身の信仰を強化する働きもあると思っています。なぜなら、24時間生きていて、自分の霊的な側面が強められる時間、知性が強められる時間、それぞれ波があるからです。
なぜ必要か?
祈っている時は霊的側面が強められるでしょう。主のためにすることはすべて霊的だという前提があったとしても、仕事をしている時は相対的に知性的側面が強められることは避けられません。つまり、進学によって知性的側面において信仰が強化できると思っています。













