ぬるい環境で生きている気
最近自分がすごいくぬるい環境で生きている気しかしないです。長期間に及ぶ過度なストレスはよくないですが、日常的な適度な緊張感すらほとんどないように思うのです。ここで「変わりたい」と思って何かしらのアクションを起こせば多少なりとも変化を起こすことは可能です。
そのアクションに感情がのっていれば目に見えるほどの変化を見ることも可能です。しかし、問題はその感情が長く続かないという問題です。
どうしようもないほどの外圧
39年間生きてきた中で、少しはどうすれば人は変わるのか?ということを学んできました。まず第一に必要になるのが、自分の影響の範囲外で、どうしようもないほどの外圧が自身にかかる時、人は間違いなく変わります。
たとえば、受験に失敗したとか、失業したとか、大切な人を失ったなどの人生の大きなストレスは人を変える大きな力を持っています。その外圧をうまく利用すれば変わることができますが、外圧にやられてしまったら変わることはできません。
悲しい道を進みたくない
僕は受験に失敗、失業、大切な人を失うなどを経験してきました。確かにそういったシーズンにおいて自分は大きく変われたと思うのです。それは、一日一日に非日常の強烈な緊張感があるからだと思います。それによって精神が研ぎ澄まされて人が変われるほどのパフォーマンスを出すのだと思います。
しかし、ここで問題があります。だいたい普通の人は自ら進んでそんな苦労、しんどい、悲しい道を進みたくないものだからです。だからこそ、自分の影響の範囲外において外圧という形で圧力がかかる必要があるのです。
霊はそれを進んで喜ぶ
ある人は、「そこまでして変わりたくない」と思うかもしれません。しかし、そこまでしてまでも変わりたいと思うのがクリスチャンです。なぜなら、クリスチャンは苦しみや悲しみの中にあっても、そこに主がおられることを体験するからです。
確かに自身の肉の性質は嫌だと思いますが、霊はそれを進んで喜ぶのです。なぜなら、キリストの苦しみにあずかることは栄光だからです。
つまり、「見よ、悲しんでいるように見えるが実は喜んでおり、貧しいようであるが富んでいるのだ」という状態なのです。この大いなる逆説がクリスチャン信仰の神髄なのだと思っています。
コリント人への第二の手紙 6:10
悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。













