神の性質がその人のうちに現れ
昨日は「知っていることとできること」の圧倒的な違いについて書きました。キリスト教においてはこの傾向は顕著に現れます。なぜなら、聖書の御言は人間にはできないからです。だから「知っているだけ」のクリスチャンが多いのです。こう書く僕もそのうちの一人です。
なぜできないのでしょうか。それは聖書にこのように書かれているからです。
ローマ人への手紙 3:10
次のように書いてある、「義人はいない、ひとりもいない。
できるはずがないのです。しかし、罪が赦され、主と共に歩み続ける人には神の性質がその人のうちに現れ「できる」ようになってきます。これはその人がしているのではなくて、内住のキリストがしているのです。だからできたとしても、その人は神にはなりません。
異言を求めようともしない
そして、今日は強烈な反発がありそうなことを書きます。それは異言についてです。多くのクリスチャンは異言については知っています。それは聖書に書かれているからです。しかし、不思議なことに多くのクリスチャンはそれを求めようともしません。ここで昭和のペンテコステ派が多くの人を躓かせることをしてきたことを考慮したとしても、求めない人が多すぎます。
ある人は、この御言を引用して反発します。
コリント人への第一の手紙 13:8
愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。
異言は使徒行伝の時代のものであり、今はないという立場をとる教会は非常に多いです。しかし、いつ廃れたかについては聖書には書かれていません。なぜ、この御言だけを引用して不要なものとしてみなすのでしょうか。
異言は賜物
そして、パウロは下記御言で言っているとおり、異言は賜物であり全員が語るわけではないと明言しています。
コリント人への第一の手紙 12:30
みんながいやしの賜物を持っているのだろうか。みんなが異言を語るのだろうか。みんなが異言を解くのだろうか。
しかし、パウロはこのようにも言っています。それは皆が異言を語ることも望んでいるということです。
コリント人への第一の手紙 14:5
わたしは実際、あなたがたがひとり残らず異言を語ることを望むが、特に預言をしてもらいたい。
異言を語る人もいればいない人もいる、それは正常なことです。そして、それぞれ与えられている賜物によって働きが違うだけで、すべての霊的なことに優劣があるわけではありません。
悔い改めと飢え乾き
異言の賜物を求めることは聖書的なことだと思います。しかし、注意が必要です。それは現象を求めてはいけないということです。それよりも主に対する深い悔い改め、飢え乾きが重要だと思います。僕自身が砕かれ、否定され、主の命が僕の内に現れるためであれば聖書に書かれていることすべて自分の中に受け入れたいと思うのです。
もちろん、下記ブログで書いたように一時期、僕自身、異言に対して否定的な感情をもっていた時期がないわけではありません。
しかし、今はそうは思いません。むしろ、この石のように硬い冷たい心を持ち、肉々しい自分が変えられるため、また主に喜ばれる1日1日を歩むために必要な者は何でも求めていきたいと思っています。












